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伊達政宗が愛した美少年と真田家の意外な関係

戦国武将の男色事情【後編】

戦国時代のストーカー、小早川秀秋

 こうして、産湯も使わぬうちから、命の危機にさらされた重長ですが、その後はすくすくと成長。1591(天正19)年に政宗の従兄弟で、景綱と並ぶ重臣だった伊達成実の手で元服したときには、先に書いた通りの、ちょっと怖いような美少年に成長していました。

 生誕の因縁もあって、政宗は重長を溺愛。関ヶ原後の1601(慶長6)年、小姓として父とともに自分に付き従わせ、京都に連れて行っています。諸侯の注目を集めたり、小早川秀秋に追い回されたりしたのは、このときのことです。

 ちなみに、秀秋のストーカー行為に嫌気がさした重長は、翌1602(慶長7)年に東福寺に立てこもったのですが、政宗は秀秋に気を使って、重長にとんでもない手紙を送っています。

 嫌な理由はいくらもあるだろうけどさ、たった一晩のことじゃない。わたしのためにも、(秀秋のいる)京都に行ってよ。主命のためなら、親の首だって斬らなきゃいけないというしさぁ。

 重長の親って、あなたの右腕の景綱なんですが……。

 この手紙にどう重長が返事したか、また秀秋の恋が成就したかまでは、史書は沈黙していて、分かりません。ただ、同年に秀秋は関ヶ原の裏切りが祟ったのか、頓死しています。ストーキングから解放されて、さぞかし、重長はほっとしたことでしょう。

独眼竜政宗のキス

 普通だったら、このエピソードひとつで主君に愛想をつかしてしまいそうなものですが、秀吉や家康だけでなく、小姓の間でも「まぁ、政宗様だったら仕方ないか」という空気があったのか、二人の仲は良好なままでした。

 また、政宗は政宗なりに、重長のことを深く愛していて、自分の家紋、九曜紋をプレゼントしたりもしています。

 ただ、この家紋は、実は政宗が、細川忠た だ興お きに無理に譲ってもらったものでした。勝手に横流ししたことを、政宗並、いやひょっとしたら日本一危ない大名だったかもしれない忠興が知ったら、怒り狂ったに違いないのですが、幸か不幸か気付かれずに済んだようです。

 ここで、生まれてから青年期までの重長の人生を振り返ってみると、

(1) 生まれてすぐ実父から殺されそうになる
(2)小早川秀秋からストーキングされる
(3)主君から勝手に売り飛ばされそうになる
(4)危険人物の家紋を知らず知らずのうちにプレゼントされる

 などなど波乱万丈で、普通だったら根性のねじ曲がった人間になりそうなものですが、彼は気性のすっきりした、勇猛な武将に育ちました。しかし、重長は信長が死んだ後に生まれ、戦国最後の世代に属しています。関ヶ原の後は大きな戦いもなく、よき戦場になかなか巡り合えませんでした。

 さぞやきもきしていたことでしょうが、1615(元和元)年、30歳になってようやく、待ち望んでいた大戦が勃発しました。戦国最後の戦い、大坂夏の陣です。

 このとき、政宗、重長の主従の関係がどんなものであったか、端的に分かるエピソードが残っています。

 以下、片倉家代々の記録が編年体で記されている「片倉代々記」、二代重綱譜、一六一四年(慶長一九)十月八日条からの、引用です。

この知らせを聞いた、重長は仙台城へ駆けつけると、政宗公に「殿、拙者を是非先鋒にしてくだされ」とお願いした。すると、政宗公は重長の手を取って引き寄せ、頬に口づけした後、「お前以外、誰を先鋒にするというのか」と涙した。

 このシーンは、片倉氏の初代、二代目の記録を記した「老翁聞書」では、口づけのことを、「頬へ御喰いつきなされ」とより情熱的にパッションをこめて表現しています。

 いずれにせよ、政宗のキスに重長は大感激。「若い身ながら早速お許しくださり、誠にありがたき幸せ」と、感涙したそうです。

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黒澤 はゆま

くろさわ はゆま

1979年、宮崎生まれ。大阪在住。システムエンジニアの仕事のかたわら、小説教室「玄月の窟」で修業。エージェントに才能を見出され、2013年に歴史小説家としてデビュー。



著作に『劉邦の宦官』(双葉社)、『九度山秘録: 信玄、昌幸、そして稚児』(河出書房新社)。現在、webマガジンcakesで男色がテーマの「なぜ闘う男は少年が好きなのか?」、ウートピにて女性をテーマにした歴史コラムを連載中。



愛するものはお酒と路地の猫。


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