一騎打ちの真相

 旗本を動かずに総指揮を務める武田信玄が、馬上の法師武者──上杉政虎に急襲されたのは合戦が最高潮の頃であった。『軍鑑』は両雄の一騎討ちを次のように描写する。

 萌黄緞子の胴肩衣を着た武者が、白手拭で頭を包み、月毛の馬に乗って、三尺ほどの刀を抜き持ち、床几の上にいる信玄に真一文字に迫ると、いきなり三太刀も斬りつけてきた。信玄は立つなり軍配団扇で受け止めた。

 ここに見える「三尺ほどの刀」は小豆長光だったとも、肥前国吉だったとも、竹俣兼光だったとも伝えられる。一般の武士は古い太刀身を摺り上げて短くした「打刀」を佩していた。徒歩で使うためである。しかし政虎は、伝存する愛刀を見るに、長大で反り返った鎌倉期の太刀を加工することなく、そのまま「太刀」として佩はいていた(竹村雅夫『上杉謙信・景勝と家中の武装』)。これらには相当の使用痕が残されており、古武士さながら馬上から振り下ろして実用していたようである。総大将自ら太刀を振り回すなど尋常の行為とは思われないが、近衛前久は政虎自身による太刀打ちを「珍しからざる義」であると述べている。これは政虎本人が常々敵陣に斬り込んでいた可能性を示しているのではなかろうか。

 ならばこの時、信玄本陣に波状攻撃を繰り返す政虎が、旗本とともに信玄に斬りかかったとしても不思議はない。政虎は矢弾飛び交う最前線を、少人数で駈け巡る大将だったと伝承されるが、永禄六年(一五六三)比定の五月十日上杉輝虎と書状には、彼が「我等自身」で「一命を捨てて」、「手廻の侍どもで鎗を合わせて数度戦い、(関東の)国衆の目を驚かせた」ことが証言されている。彼は史実でも、自ら刀槍を手にして戦う武将だったのである。

 なお、宇佐美定祐の手による軍記『河中島五箇度合戦記』は、信玄に太刀打ちしたのは政虎ではなく、近習荒川伊豆守だったとしている。荒川説発祥の理由に、「軍記作者が『総大将たる政虎が敵陣に突撃するのはみっともない』と考えて事実をねじ曲げたのではないか」と見る識者もいるが、そうではない。なぜなら先の軍記では、第四次とは別年である天文二十三年(一五五四)八月十八日の合戦に、両雄が太刀打ちするシーンが描かれているのだ。種を明かせば単純な話だが、この合戦では軍記作者の先祖とされる宇佐美駿河の活躍があったらしく、これを第四次の合戦以上に注目させようと、一騎討ちの時代を移したらしい。軍記作者は、『軍鑑』で盛り上がる見せ場の武者を、比較的知名度が低い荒川伊豆守にすり替えて興ざめを狙い、武田系軍記の価値低下をはかったものと思われる。

 桶狭間の再来とばかりに太刀を手にする政虎。これを見るなり立ち上がり、軍配で身構える信玄──この名場面が史実である可能性も、まだ一定以上残されていよう。

一騎討ち発生の理由

「この機を逃すな」とばかりに政虎が敵本陣への乱入を決意し、戦国史上類の無い一騎討ちがもし本当にあったなら、どうして起こったのか。歴史好きである人々はこれを偶然の産物と見る傾向が強い。多くの方は乱戦中に政虎が、信玄の在所をほとんど偶然見つけたように感じているらしい。その証左となるのが、従来の創作物(小説や映画等)で、いずれもこの説を採用している。

 しかし、別の線から考えてみよう。一騎討ちに至る戦況を政虎自ら準備した可能性を──。誘爆的に諸隊をぶつけ、本隊同士で衝突する作戦は、村上義清に先例があった。銃弾と弓矢の攻撃と前進を連続し、近距離に入ったところで、長柄が一斉に押す。全ての動作が整えば、騎兵を連れて自ら大将の討ち取りに向かう。五段隊形の車懸りだ。こうした諸兵科の連合戦術は、豊臣期の朝鮮出兵や徳川期の兵法にも投用されており、「五行の備え」等の名で伝わっている。川中島合戦の一騎討ちは、入念な計画によって仕掛けられた可能性を視野に入れるべきであろう。

(『上杉謙信の夢と野望』より構成)