車懸りの構えの真相

 九月十日早朝。夜が明けて、霧が晴れる頃、武田軍の予期しない出来事が発生した。八〇〇〇の兵で八幡原に布陣する信玄軍の前に、一三〇〇〇の政虎率いる上杉本軍が近接していたのである。武田方にすれば、戦慄すべき最悪の事態と言っていい。上杉軍は妻女山を下り、千曲川を渡ると、武田軍撃滅のため、八幡原にて決戦準備をしていたのだ。

 この時、上杉軍の兵数は武田軍より六割も上回っていたが、春日山からの増援と合流した数であろう。この時の上杉軍が用いた陣形は「車懸がり」であったと伝わる。

 車懸りといえば、一般には複数の部隊が円陣を組んで、ぐるぐると回りながら敵陣に攻撃を加えるという認識が広まっているものの、あまりにも実用性が感じられないことから、車懸りなる戦法は存在しなかったと見なされている。ところが、車懸りの初出史料である『軍鑑』の記述は、このようなイメージとほとんど一致しない。

 謙信は、我が味方の備えをまはりて、たてきり、いく度もこの如候て、さい川(犀川)の方へおもむき候。[中略]それは車がかりとて、いくまはりめに旗本と、敵の旗本とうちあはせて、一戦をする時の軍法なり。

『軍鑑』によると、上杉の陣は「まわりて、たてきり」を繰り返しながら犀川へ進んでおり、信玄の出した斥候は「北に向けて撤退中」と見間違えた。そして報告を受けた信玄はこれを「車がかり」と看破し、本陣を強襲するための戦法だと説明している。『軍鑑』の文章だけ見れば上杉軍の陣形を、円形に結びつける要素はどこにもないのだ。

 では、我々が持っている車懸りのイメージはどこから来たのだろうか。『上杉年譜』は「車備え」、『常山紀談』は「一手限りの陣法」、『北越軍談』は「大長蛇だの備をなし、一隊伐りの合戦を待つ。世に云う当家の車懸り・片車・双車」と記す。こうした記録から、後世の軍学者が研究をすすめるうち、まるで蛇がとぐろを巻くような方円の陣と、行軍隊列である長蛇の陣が合わさって循環攻撃する陣が「創作」されてしまったのであろう。
 
 今日の我々は、軍学者の編み出した車懸りと、『軍鑑』に見える車懸りを別物として、再検討せねばなるまい。少なくとも『軍鑑』の車懸りは円形陣ではなく、武田の本陣に向き合う横並びの陣形なのである。そしてこれは、武田軍を遠巻きにじわじわと犀川のある左先へと進む進軍隊形であった。

 この時、『軍鑑』を見ると、武田軍は鋒矢の陣(矢印型)をとっていたらしく、前線は横に広がっているのに、後部はほとんど縦一列となっている。信玄が「攻撃を繰り返し、最後には旗本同士でかち合うのが車懸りだ」と述べたように、政虎は、まず先手に武田軍の先鋒を犀川寄りに迂回させ、右側面を攻撃、次の新手がこれを迂回、もうひとつ奥の武田右側面を攻撃、また次の新手が……という手順を繰り返し、最終的に旗本同士の決戦を挑む作戦でいたのだろう。これを見た信玄は急遽、鋒矢の陣を鶴翼の陣に改めるよう命じた(『北越軍談』)。左右に展開して旗本側面の兵層を厚くしようとしたのである。

 
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