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角栄の「日本列島改造論」がはらんでいた「矛盾」とは?

角栄とその時代 その6:「貧困」から「飽和」へ

列島改造論の是非

—-角栄の列島改造論を総括するとすれば、いったい?
平野氏「そもそも『改造論』の構想は現実的にはスタートてしませんでした」
—-それはなぜ? 
平野氏「地名を含むという具体的過ぎる建設計画だったために、当然書かれた周辺の土地価格が異常な値上がりをするということが起きました。バブルの走りですね。また、オイルショックや狂乱物価に見舞われ経済政策が後手後手になる中、ライバルの福田赳夫に、『改造論の撤回』を条件に、急死した愛知揆一郎蔵相の後任を頼まなければならなかったからです。蔵相となった福田は、角栄の〝超大型予算〞 の積極財政から緊縮財政に切り替え、公共事業の実施を繰り延べます。 1973(昭和48)年末のことですから、首相就任わずか1年半も経たぬうちに構想は頓挫してしまったのです」
—-では、やはり、その後のバブルにつながる意味で失敗だったのですか?
平野氏「いまから45年も昔の構想を現在時点の視点で評価すること自体が間違いです。列島改造論の目的は格差解消です。国民の“人間復権”への願いは変わりません。しかし、世の中は過剰流動性(つまり現金)が増えたゆえの投資先を求めていた。また日本の貿易黒字がもたらした為替相場が円安から円高の時代に変わりつつあったのです」
—-すでに、社会が復興ではなく「豊か」で「飽和」していたのかもしれませんね。
平野氏「そうですね。角さんもそこは見誤っていたことは反省していましたなあ(笑)」

●角さんの教訓6●
「貧困」「復興」と人間的な欲望も豊かな「飽和」した社会では、次第に欲望が人間を離れ、化け物のように一人で育ち、バブルの時代に突入した。その時、角栄の「居場所」は無くなっていった

 

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平野 貞夫

ひらの さだお

1935年高知県出身。法政大学大学院社会科学研究科政治学専攻修士課程修了後、衆議院事務局に入局。園田直衆議院副議長秘書、前尾繁三郎衆議院議長秘書、委員部長等を歴任。ロッキード事件後の政治倫理制度や、政治改革の実現をめぐって、当時衆議院議院運営委員長だった小沢一郎氏を補佐し、政策立案や国会運営の面から支える。92年衆議院事務局を退職し、参議院議員に当選。以降、自民党、新生党、新進党、自由党、民主党と、小沢氏と行動をともにし、「小沢の知恵袋」「懐刀」と称せられる。自社55年体制より、共産党も含めた各党に太いパイプを持ち、政界の表も裏も知り尽くす存在で、宮沢喜一元首相からは「永田町のなまず」と呼ばれる。現在、土佐南学会代表、日本一新の会代表。主な著書に『ロッキード事件 葬られた真実』(講談社)、『平成政治20年史』(幻冬舎新書)、『わが友・小沢一郎』(講談社)、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス)、『野党協力の真相』(詩想社新書)などがある。


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