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最強の部下・弁慶伝説の謎…
京都・五条大橋での決闘はあったのか!?

源義経、誕生から初陣に至る波乱の半生に迫る! 第4回

鞍馬山での修行、弁慶との決闘など、伝説に彩られた源氏の若きスターの、誕生から初陣までの前半生に迫る連載!

義経と弁慶の決闘場所は
五条大橋ではなかった!

壇ノ浦・源義経像

 弁慶はその生誕から超人的である。母のお腹の中でのんびり3年もすごし、出産時にはすでに髪は首まで伸び、歯は生えそろい、手足の筋肉は隆々、生まれ落ちるとむくりと起きあがり、東西をきっと見て「あら明かや(おや明るいな)」と言ってカラカラと笑った。
 へその緒も自分で切って結んだに違いない。父はとんでもない鬼子だと山に捨ててくるが、死骸を見に行った使者は、山犬と遊ぶ赤子を見て震え上がる。ここまでくると、弁慶が実在したかどうかなど、どうでもいいように思えてこよう。難産でも、捨てられても損なわれることのない生命力、これこそが弁慶の原点である。

 弁慶の父は紀伊熊野神社の別当湛増、幼名は鬼若。稚児として延暦寺へ入るが、乱暴の限りを尽くし、同寺を追われる。自ら剃髪・出家して武蔵坊弁慶と称すると、諸国修行へ出かけ、越前白山では大石を放り投げて老僧2人を圧殺、播磨書写山では喧嘩の末に寺に火をかけ出奔。京都に戻り「人の重宝は千揃えて持つ」ものだと聞き、人の太刀を千振奪って重宝にしようと思い立ち太刀を奪い歩く。

 6月のある日、弁慶は五条天神に参詣し「今夜は御利益で良い太刀を授けてください」と良からぬ祈念をし、参詣人の中に物色する。やがて明け方、堀川通りを南へ歩いてゆくと白い直垂・白い鎧の若者が、黄金作りの太刀を帯いて笛を吹きつつ歩いてきた。これが義経である。
 弁慶は「敵を待ち伏せしていたところである。怪しいやつだが太刀を置いてゆけばゆるしてやろう」と言いがかりをつける。義経が「欲しくば寄ってとれ」と返すと、鼻白んだ弁慶が斬りかかるのをいなして、3メートルもの築地をひらりと飛び越え去った。翌日、弁慶は、義経が清水寺に参詣するはずと狙いをつけて清水坂で待ちかけるが、通りかかった義経に「観音に宿願があるのでご免!」と肩すかしをくう。弁慶は翌朝まで、通夜の参籠を終える義経を待ち、清水の舞台でようやく本格的に斬り合う。ここで弁慶は義経に打ち伏せられて臣従を誓うのである。

 

 これは義経説話では最もポピュラーな『義経記』の一節であるが、お気づきのように義経と弁慶の決闘の場所は五条大橋ではない。つまり義経と弁慶の決闘の場所が五条大橋であるというのは絶対ではないのだ。ただし、弁慶は五条天神に願をかけて義経と出会い、清水坂で再会し、清水寺で決闘するという具合に、鴨川を挟んだ五条―清水寺の間を舞台として物語が展開する。この中心にあるのが五条大橋なのである。
 五条大橋は生と死の狭間に架かる橋、そう言っていいだろう。洛中から橋を渡った先は平安京最大の葬送地鳥辺野が広がり清水寺に至る。ちゃんと埋葬される人ばかりでなく、飢饉ともなれば捨てられた餓死者が五条河原に山をなす。その東隣が六波羅で、その名は髑髏原から転じたという。五条大橋の下には髑髏、その上で白装束の義経と、黒い僧衣の弁慶が火花を散らす。白い義経と黒い弁慶、橋の上は生で下は死。この緊張感あふれる構図こそが、決闘の場所を五条大橋へと限定していった由縁であろう。

 なお天正18年(1590)以前、五条大橋は松原通りに架かっていたが、豊臣秀吉は方広寺の建立に伴い、それを現在の場所へ架け替えた。よって義経・弁慶の決闘は、もとの松原通りに架けられた五条大橋ということになる。
 

第5回は、2月26日(日)に更新予定です。

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菱沼 一憲

ひしぬま かずのり

1966年福島市生まれ。國学院大学文学部史学科兼任講師。著書に『源義経の合戦と戦略 その伝説と実像』(角川選書)、『中世地域社会と将軍権力』(汲古書院)などがある。


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