振り返ればそこに……【森博嗣】新連載「道草の道標」第7回
森博嗣 新連載エッセィ「道草の道標」第7回
【作家になって驚いたこと】
驚いたというよりも、これまで会ったことがない人たちと交流できた。なるほど、そういうふうに考えるのか、これがこの人たちの常識なのか、と認識を新たにする機会があって、ほんの少し観察できる世間の範囲が広がった。これは素直に良かったと思う。
たとえば、ファンの人たちは、当然ながら小説に親しむ人たちであり、彼らの周囲もみんな小説の愛好家だ。日常的に小説を読む人というのは、1000人に1人くらいで、これまで出会ったことがなかった。たとえば、僕が小説家になっても、僕の職場の周辺では誰も読まない。話題にさえ上がらない。200人くらい学生がいる教室で数学の授業をしていたが、雑談で村上春樹を話題にしたら、みんなきょとんとしていた。手を挙げさせたら、知っているのは2人だった。さすがに、村上春樹ともなれば1%もの人が知っているのだな、と僕は再認識した。僕自身は、村上作品を読んだことはない。
出版社の人たちも、異次元の人種のように見えた。主に会うのは担当編集者だけれど、ほかの作家がどんなふうなのか、という話を聞くことができる。大物作家の噂も漏れ聞こえてくる。かつて小説が何百万部も売れた時代があったから、著名人といえるくらいビッグな人たちで、そんな世界なんだな、と驚きでいっぱいだった。
僕がデビューした頃もぎりぎりまだ出版界は盛況だったからか、編集者と会えば高級レストランで食事をすることになり、すべて経費なので値段もわからなかった。編集者はみんな、取材旅行にいきましょう、としきりに誘う。僕は乗り気はしないし、取材する必要性も目的地も思い浮かばない。それでも、イギリス、フランス、ドイツ、スイス、イタリア、台湾などへ出版社持ちで旅行にいった。すべて奥様(あえて敬称)も同伴で、僕が使ったお金は、むこうの模型店で購入したものだけだった。会社のお金を使わせて申し訳なく感じたが、まあ、僕から行こうといいだしたわけではないから……。
編集者とは仕事の話はほとんどしなかった。世間話や人の噂をするだけ。仕事の段取りは全部自分で進めていたし、何を書くかも決めていた。本の装丁もすべて僕が決めた。この仕事で、口出しされたことは一度もなく、自由に書いて、出来上がったら原稿を送って、それがそのまま本になった。内容を少し変えてくれとか、ここはまずいですよ、と注文をつけられるようなこともなかった。
驚いたことといえば、僕は文庫本が好きだから、自作も最初は文庫で出してほしかった。ところが、まずはノベルスというサイズで本になった。文庫は3年後だといわれたのだ。そんなシステムなんだ、と驚いた。ハードカバーの単行本は、売れている作品を豪華版で出しているものと認識していた。技術書、学術書なら、何年も図書館に保存されることになるから頑丈な本が適しているが、小説は個人が買うものだから、図書館で借りたりしないだろう、とも思っていた。
なにはともあれ、作家としての仕事を恙無く続けられたのは、担当になった編集者の方々(たぶん30名くらい)のおかげで、仕事とはいえ親切に対応してもらい、感謝している。嫌な思いをすることはほとんどなかった。大学内や学会内の方がずっと(研究ではなく運営上のことで)喧々諤諤だったからストレスがあった。酷くなるまえに辞めて(辞められて)良かったなあ、と今もしみじみ思っている。
どんな職種であっても、多かれ少なかれストレスがある。楽しくてしかたがない、という仕事はたぶんないだろう。仕事がなければ、上下関係もなく、人間関係も拗れない。戦争がなければ平和になる、というのと似ている。仕事も戦争も、そこで稼ぎたいと考える人たちのために存在し、そこで生じる権力という幻想によって社会が拗れてくる。

文:森博嗣
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