内藤哲也「辞めます」宣言の1秒前まで新日本辞めるつもりなかった!「面白いかなって」

2025年4月16日、新日本プロレスを引っ張ってきた「制御不能のカリスマ」こと内藤哲也が同団体を退団することが正式発表された。内藤は1月末に新日本プロレスとの契約を更改せず、2月以降はフリーとして同団体のリングに上がっていた。その後5回の交渉を行うも双方合意に至らず、退団する運びとなってしまう。
5月4日に新日本でのラストマッチを終えたカリスマはバックステージで「じゃあ、またお会いできるその日まで、アディオス」と語り、休養期間へと入った。
かつて内藤は、熊本地震の被災者へ向けて「一歩踏み出す勇気を持つことも必要だと思う」と語った。今回、自らが「一歩踏み出す勇気」を持って行動をしたことになる。新日本プロレスという業界トップの団体を抜けて、自身の足で新しい道を歩き始めた内藤に今回の退団劇も含めて詳しく話を聞いてみた。
■幼少期から新日一直線!他団体は眼中になかった
1982年、東京都足立区で生を受けた内藤哲也は、父親がプロレスファンだった影響で幼い頃からプロレスに親しんできた。生まれて初めての生観戦は記憶がない程小さな頃。父に手を引かれて会場へ向かったという。
応援している団体は新日本プロレス一本。他団体に興味を抱くことはなかった。そんな少年時代を過ごした内藤哲也が「新日本プロレスのレスラーになりたい」という夢を抱くのは当然の流れだったかもしれない。
「俺には三つの夢があったんです。一つは新日本プロレスのレスラーになること。もう一つが20代でIWGPヘビー級のベルトを巻くこと。最後が東京ドームのメインに立つこと」
この夢を実現するべく高校3年生の秋、アニマル浜口ジムへ入門。新日本プロレスのレスラーになるためのトレーニングをスタートさせた。
ところが入門テストを受ける直前に、ジムでのスパーリング中に右膝前十字靭帯断裂。翌年はリハビリ中で入門テストを断念することになった。翌々年はベンチプレスで肩を負傷し、3年連続で入門テストを受ける機会を逃してしまう。

「新日本プロレスのレスラーになりたかったから他のプロレス団体を受験しようと思ったことはないです。元々武藤敬司選手のファンでしたけど、武藤選手が新日本プロレスを離脱しても気持ちは変わりませんでした。
俺は野球では広島東洋カープのファンですけど、カープって結構選手が抜けるじゃないですか。でも自分が好きな選手が抜けてもカープが好きなんです。個人というよりも団体が好きなんでしょうね」
2005年11月3日に、ようやく受験できた新日本プロレスの入団テストで見事合格。同年の12月に寮へ入り、練習生としてのスタートを切った。翌2006年5月27日にプロレスラーとしてデビュー。子どもの頃から抱いた夢を叶え、残り二つの夢へ進む第一歩を踏み出す。