楽ありゃ苦もあるさ【森博嗣】新連載「道草の道標」第1回
森博嗣 新連載エッセィ「道草の道標」第1回
【持ち直したその後】
奥様は、悪いことが重なったので、お祓いをしてもらった方が良い、などとおっしゃった。僕は「お祓い」という行為をどこで誰がするのか知らない。神社かお寺だろうか。それとも祈祷師みたいな専門のプロがいるのだろうか。きっと「お支払い」もしなければならないはず。
僕は、還暦のときになにもしなかったが、奥様は自分だけこっそりお祓いをしてもらったそうだ。だいたい、神社なんか行ったことがないし、賽銭を投げたこともないし、おみくじを引いたこともないし、宝くじも買ったことがない。僕がそういう人間だと承知している彼女は、その種のことを僕に内緒で行うのである。夫婦間の隠し事が多数かつ頻繁すぎ、お互いに相手のいうことを信じていない。信頼というものはなく、単に近くにいるから、いちおう、一大事のときに声をかけることが可能だという程度の関係である。
さて、犬も奥様もまだ完全に治っていなかった4月下旬、僕は自分のもう1台の車でドライブに出かけることにした。150kmほどの距離のところにあるディーラにもタイヤ交換のため寄る予定だった。ところが、その日の朝になって、突然奥様が一緒に行くといいだした。しかも犬も連れていきたいという。このようなことは、普段でもよくある。たまたま、この朝は薬が効いたのか、痛みが引いたらしく、気分がハイになっていたのだ。
しかし、そのディーラは都心にあって、気候がだいぶ違い、森家よりも暑い。しかも晴天だ。4月とはいえ、タイヤ交換を待つ間、犬を歩かせるのが可哀想だ、と心配になった。どこか木陰を見つけて、そこで涼んでいよう、と考えた。
ディーラに到着すると、受付の人が出てきて、どうぞオフィスへ、と案内する。犬がいるから、と断ると、犬もOKです、という。ゆったりとしたソファに腰掛けると、別のスタッフが飲み物のメニューを持って現れた。無料で飲めるらしい。犬のための飲み物もある。なんという気の利いたサービスだろうか。ドイツのメーカも、まるで日本のようにおもてなしをするようになったのか。
鎮痛剤が効いてハイになっていたうえ、この待遇に気分を良くした奥様は、すぐ横に飾られていた新型モデルを指差し、これがいい、これを買いなさい、と僕に勧めた。今乗っている車は9年まえのモデルだが、気に入っていて買い換える気などなかったのに、彼女の強いプッシュで、購入することになってしまった。商売というのは、このようにどんなサービスが奏功するかわからない、まさに水物である。
というわけで、ぶつけられた車も修理で戻ってきたし、奥様も犬も病気から完全回復。さらに、新車が家まで運ばれてきた。新車の担当者から2時間もレクチャを受けたが、最初にしなければならなかったことは、スマホにアプリを入れ、パスワードを決めることだった。自動車もそういう時代になったのだ。
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