バブルの混沌と『SPY』と『03』【新保信長】新連載「体験的雑誌クロニクル」14冊目
新保信長「体験的雑誌クロニクル」14冊目
対して、私が担当した『SPY』1991年6月号の手塚治虫特集は、見開き扉のビジュアルにイラストレーター・モデラーの横山宏氏作のオブジェを使用(同氏はのちに手塚治虫文化賞のトロフィーも手がける)。本来なら何十万か支払うべきところを格安で制作してもらったが、それでも当時の編集部の予算的には大奮発だった。一点豪華主義というか、その分、ほかのページはカリスマ節約主婦ばりのやりくりでしのいだ。

そもそも『03』と『SPY』では人件費=編集部の人数からして大きく違う。上記の号のクレジットを見ると、『03』は「EDITOR」と名の付くスタッフが編集長含め12人。『SPY』は名目上の編集長である社長を含めても6人だ。戦力差は明らかだが、この時期の『03』と『SPY』は、扱うテーマや執筆陣、混沌とした誌面の雰囲気に共通するものがあった。個人的にも『03』は好きな雑誌だったし、一方的にほんのりライバル視もしていた(向こうは歯牙にもかけていなかったと思うけど)。
しかし、『SPY』は91年10月号、『03』は同11月号をもって休刊となる。最終号の特集が『03』は「テレビ―つまらぬ電波に愛の手を」で『SPY』は「吉本興業の研究」というのも何となく重なるところがある。フジテレビや吉本興業に問題噴出の今見ると、このテーマでジ・エンドとなったのは皮肉なめぐり合わせにも映る。
冒頭で述べたとおり、1991年はバブル崩壊の年でもあった。両誌の休刊は必ずしもそれが原因ではないが(要は売れ行きが芳しくないということで、SEX特集とかやりだすのは危険信号)、結果的に「バブルと共に去りぬ」ということになった。
『SPY』の休刊を機に、私は会社を辞めてフリーの道を選んだ。前回書いたとおり、レギュラー仕事は決めていたし、もともとの給料が安かった(手取りで20万円に届かず)ので辞めても惜しくなかった。その時点ではまだ世間にもバブルの余熱が残っており、自分一人食っていくぐらいはどうにでもなると思っていたところもある。
果たして、翌年には所得倍増、3年後にはめでたく年収1000万を突破した。世間的にはバブルは崩壊したが、個人的にはそこからがバブルだった(というか仕事相応のギャラをもらっただけだが)。もし『SPY』がつぶれてなかったら、そのまま会社員として安月給で働いていた可能性は高い。人生何が幸いするかわからないものである。
文:新保信長