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片桐且元の書状

季節と時節でつづる第260回

 9月30日に新聞各紙で取り上げられたニュースですので、読者の皆様はすでに御存知と思いますが、本願寺史料研究所さんが片桐且元の新出書状を発見したと同日発表しました。書状の日付は慶長19年12月18日。

 そう、大坂冬の陣の中で出されたもので、宛先は西本願寺の宗主・准如。
10月13日~21日、龍谷大学の大宮学舎で展示されるという事で、何はともあれ京都に行って参りました。JR京都駅から徒歩で10分強ほど北東にあがっていったところにある龍谷大学大谷学舎。
 

 

 書状は正門入って正面の本館(重要文化財)1階に展示されておりましたが、撮影どころかメモ書きも禁止という事だったので、ひたすら眺めるだけでした(汗)。それでもやはり現物は良い! と堪能した次第です。

 ……と、報告だけで終わっては申し訳ないので、新聞記事に出ていた画像を元に読み下してみたいと思います。違っていたらごめんなさい、という事で。

「こちらにお見舞いの使者と、殊に見事な弁当を一荷いただき、本当にありがとうございます。
 私は備前島の仕寄におり、今朝も将軍様がおいでになりご覧なされ上機嫌でした。
 大坂からいろいろと詫び言を言って来ているそうですから、近日講和となるでしょう。
 めでたい事です。
 ともかく追って結果をお知らせします。
 なお、横田内膳正を派遣いただき、本当に忘れられないほどかたじけなく思っております」

 且元は豊臣家臣時代、備前島(現在の大阪市都島区網島町。大阪造幣局の対岸で、大阪城の北)に屋敷を持っていたから、そこに大坂城攻撃のための仕寄(楯、柵、櫓など)を構えていたわけですが、12月16日から、徳川家の砲術方がこの備前島から大坂城に向け砲撃するのを指導していました。他にも玉造など諸方面から砲撃はおこなわれていますが、備前島から御殿の千畳敷に照準を向けて放たれた砲弾は淀殿の御座所に命中し、不運な侍女が倒れた柱の下敷きになって圧死したといいます(『徳川実紀』『大坂御陣覚書』ほか)。

 実際に砲撃をおこなった稲富正直の記録によると、砲兵隊は大鉄砲と石火矢(フランキ砲)の混成で城の櫓や建物を多数撃破。城内は大騒ぎとなりました。「台徳院御感悦あり」ともあり、且元書状におけるご機嫌な秀忠の姿も合致しています。(『寛永諸家系図伝』)

 城内の案内に詳しい且元のおかげであやまたず砲弾を命中させたことにより、大坂城中の豊臣方は急速に講和へと傾き、この書状がしたためられた翌日、条件の合意がなされる事となるのでした。
 

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橋場 日月

はしば あきら

はしば・あきら/大阪府出身。古文書などの史料を駆使した独自のアプローチで、新たな史観を浮き彫りにする研究家兼作家。主な著作に『新説桶狭間合戦』(学研)、『地形で読み解く「真田三代」最強の秘密』(朝日新書)、『大判ビジュアル図解 大迫力!写真と絵でわかる日本史』(西東社)など。


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