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キングメーカー・中臣鎌足が中大兄皇子を操った!?

「乙巳の変」の黒幕は誰だ? 第4回

 鎌足はめきめきと才覚を現す。後世の粉飾もあるだろうが、幼年から勉強が好きで、とりわけ兵書の『六韜(りくとう)』をマスターしたという。蘇我氏が実質的な力を持っていた朝廷は629年、わずか15歳の鎌足に錦冠を授けて、宮廷の祭祀を司る中臣氏の家業を継がせようとした。ところが、鎌足はこれを固辞。さらに、大化の改新のクーデター直前の644年(鎌足31歳)には、神祇伯(かんつかさのかみ)に任じられた。神祇伯という役職が本当に存在したかどうかは疑問だが、祭祀を統括する地位はあったはずだ。だが、再びこれを固辞して、今度は大和(やまと)から離れた摂津(せっつ)(大阪)に隠遁(いんとん)してしまった。「中臣氏の復興」を第一に考えれば、神祇伯は最高の選択である。恐らく、クーデターのために潜行したのだろう。

 同じ時期に皇極(こうぎょく)天皇の弟で、皇族の有力者である軽皇子(かるのみこ)(後の孝徳天皇)も、足の病と称して隠遁している。そこの門をたたいたのが、鎌足であった。驚いたことに、31歳と若い鎌足を丁重に迎え、自分の部下(読み方によっては愛妃)まで与えているのだ。このことは、鎌足が当時の政界のなかでも特に注目されていた人物だったことを物語る。

 ここから先の鎌足は、まさに「キングメーカー」だ。丁重な扱いを受けた軽皇子に対しては、「皇子こそ天下の王となるべき人だ」(日本書紀)と褒めておきながら、裏では軽皇子の器量ではクーデターという大事をともに謀(はか)れないから、次に仕えるべき君主を捜したと評価(藤氏家伝)し、軽皇子から離れていった。

 次に10代の中大兄皇子に目をつけた。というよりも年配の軽皇子より、若い中大兄皇子のほうがコントロールしやすいと踏んだのだろう。さらに鎌足は、蘇我氏にくさびを打つことに成功する。分家に甘んじていた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)(入鹿の従兄弟)の娘を中大兄皇子と結婚させることで、謀略に引きずり込んだ。

 クーデターの成功後、鎌足はまたも思いがけない手を打った。皇極天皇が息子の中大兄皇子に皇位を譲ろうとした時、鎌足は「年長をたてるべき」と反対して軽皇子の即位を実現した。天皇の決定をひっくり返すのだから、まさにキングメーカーである。

 軽皇子はさきの「皇子こそ天下の王となるべき人」という鎌足の言葉を信じて絶対の信頼を与えただろうし、中大兄皇子もまた、自分のために道理を説いてくれる良きアドバイザーとして、さらに鎌足に傾倒(けいとう)していった。こうして陰の存在ながら、中臣氏は単なる祭祀の専門家ではなく、かつての蘇我氏に匹敵する政治の実力者に昇り詰めさせた。死の直前に、中臣氏をこえる氏として「藤原」を天智(てんじ)天皇(中大兄皇子)からもらった鎌足の野望は、表の世界の実力者として君臨した息子の不比等(ふひと)によって完成される。

写真を拡大 中臣鎌足の子孫は、奈良時代から平安時代にかけて貴族政治の中心にあった藤原一族。鎌足の次男・不比等は、天皇の外戚として政権内での発言力を強めていった。鎌足の孫の代になると藤原家は4家に分かれ、それぞれが太政大臣や左右大臣など、上級官を独占し続けた。

「乙巳の変」の黒幕は誰だ? 第5回へつづく》

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恵美 嘉樹

えみ よしき

作家・ライター。歴史研究の最前線と知識をわかりやすく伝える2人組。著書に『全国「一の宮」徹底ガイド』(PHP文庫)、『日本の神様と神社―神話と歴史の謎を解く』(講談社プラスアルファ文庫)などがある。


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