日本を天皇が統治する神国とたたえるとともに、列強による侵略の危機を訴え、「これに対抗するため、天皇を不変の君主とし、皇祖神に対する祭祀を通じて忠孝の道徳を人びとに浸透させ、国内の民心をまとめべきだ」と説き、具体的な方策として全国の神社の祭礼を朝廷が統括し、民心を統一すべきだとした。また「敵の侵入を防ぐために辺境地区の防備強化し、銃砲技術の訓練の徹底し、海軍を充実させ、そのうえで国力を蓄えて、積極的に海外へ進出していくべきだ」という方策を提言したのである。 
 ただ、現在の国家体制を崩そうという意図はなかった。むしろ「幕藩体制は、古代日本の政治体制と合致したものであり、天皇が委任する幕府や藩に人びとが服している状態が、結果として国家の安泰につながるのだ」とした。
 この『新論』は藩主・徳川斉修の判断で出版を許されなかったが、写本が出回りはじめ、老中の阿部正弘など幕閣のあいだでも閲覧された。開国の前には志士の間でも読まれ、長州の吉田松陰も感銘を受け、水戸に来て会沢に教えを請うほどになった。
 ペリー来航後の安政四年(一八五七)、『新論』が公刊されると、同書は志士たちのバイブルとなり、過激な尊王攘夷運動に挺身するようになった。
 会沢はこの運動を嫌い、文久二年(一八六二)、前藩主・徳川斉昭の子で幕府の実力者一橋慶喜に対し、『時務策』と題する開国論を主張する一書を提出した。そのため尊攘派から批判されたが、翌年、会沢は死去してしまう。

■目指すべきは文明開化

 だが、藩が団結して尊攘をとなえていた長州藩も、下級武士が攘夷を主張していた薩摩藩も、じっさいに外国軍と戦って敗北し、攘夷の不可をはっきり認識したのである。
 犬猿の仲だった両藩は、近代的統一国家の必要性を痛感し、ついに同盟を結び、イギリスの支援を受けて倒幕を実現させたのだった。こうして朝廷を中心する薩長土肥を中核とした雄藩連合政権(新政府)が樹立され、戊辰戦争で日本を統一した。この間、新政府は国家の方針として五箇条の誓文を発し、攘夷思想を捨て開国和親の道を進むことを公言する。尊攘の志士たちがつくった政権は、その考え方を一八〇度転換させたのである。
 廃藩置県によって名実ともに唯一の政治権力となった新政府は、欧米への使節団を組織し、政府の高官と多くの留学生を渡海させた。思い切った英断といえよう。
 彼らはアメリカやヨーロッパで進んだ文明や科学技術を目の当たりにし、近代化の必要性を強く認識し、帰国後、すさまじい殖産興業政策を展開していくことになったのである。

福沢諭吉が著した『世界国尽』の中にあるアフリカの地図

 なお、幕末に欧米に渡った福沢諭吉、森有礼、津田真道、西周、中村正直ら知識人たちが、維新期に西洋の思想や文明を紹介する著作を次々と発表する。
 立身出世が可能になった四民平等の世の中で、啓蒙思想家たちの著作は若者たちに大いに読まれた。欧米で地理書を集めた福沢諭吉や内田正雄らは、世界の国々について記した地誌を刊行したが、これらはベストセラーとなり、類書も多く生まれ、教科書などにも採用された。これにより、明治の日本人はアフリカや中東など、それまでほとんどなじみのなかった国々を知ることになり、大きく世界認識を変えるとともに、欧米のような「文明開化国」を目指すべきだという考え方が定着していくのである。