墓に入る「私」なるものはここには存在しない

 だからこそ、死後も自分の意識が骨の中にあるかのような妄想を前提にして、「誰々と同じ墓に入ったら骨=私が気分が悪かろう」だとか「樹木葬にしてもらったら、骨=私は自然に還れて心地よかろう」といった考えが出てくるのです。

 そう、死んだからには、もう墓に入る私なるものは、ここには存在しないのです。金輪際、今回の人生は終わり、きっぱりと退場しなければならない。完璧な、断絶。
 つまり、「人は、死んですべてを失う」ではなく、「この私が、死んですべてを失う」のです。

 この私が、死ぬ。
 いなくなる。

 それを忘れているので、つまらないものを大事だと思いこんで追い求めもし、つまらない違いにこだわって言い争ったりもするのです。

 そうか、どの道、私はそのうち、すっぱりきっぱり退場して、いなくなるのだ。だったら、これも、あれも、けっこう、どうでもいいじゃないか。

 明日も、明後日も、半年後も、1年後も、10年後も、その後もずーっとこの意識が永続するかのように錯覚しているからこそ、争いたくもなるのです。つまり、生存欲求の延長線上で永遠に生きるかのような気にさせられているからこそ、です。

 この私が死に、いなくなることを、体感するまでイメージする。いなくなるのなら、墓もどうでもいいし、他人の失礼さもどうでもいいし、意見の違いもどうでもよくなるのです。己が去りゆくものであることを知れば、平和。

 かくして、死が、心の平安を、くれるのです。そうした平和な心持ちで、人生の幕を閉じたいものではありませんか。

 

               〈『いま、死んでもいいように』より抜粋〉