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「誠」の心を使い果たした近藤勇の最期

近藤勇の苛烈なる生涯 第4回

 

 

愚直なまでに己の信念を貫き、動乱の幕末を誰よりも武士らしく生き抜いた近藤勇。
壬生狼と恐れられた新選組局長としての顔と、その裏に隠された素顔に迫る!

 伊東甲子太郎を油小路で斬殺したころ、近藤勇は新選組の路線をはっきりきめていた。それは「新選組は徳川家のために戦いぬく」ということである。「徳川家のため」というのは、慶喜のためではない。近藤の頭の中には生まれ故郷である多摩の里の光景が浮かぶ。あの地域を愛し、理想的な農村を保存しようとした、徳川家康の土への愛情が偲ばれる。近藤が殉じようとしているのは、そういう家康の思いが沁みこんだ、多摩への愛情だ。「徳川家のため」というのはそういう思いの一切を象徴化したものなのだ。
 しかしこんな考えは土方や沖田や井上はともかく、ほかの隊士には理解できない。伊東は近藤を「時代遅れの徳川骨董品だ」と嘲笑した。そして徳川家の直参旗本になることをきらい、天皇の墓を守る「御陵衛士」になった。朝廷の役人になったのでる。その残党が恨みを晴らすべくしきりに近藤を狙っているという。

 慶応3年(1867)12月9日の「王政復古」により徳川幕府は消滅した。京都守護職ほかいっさいのポストが廃止された。幕臣はすべて徳川家の私的使用人になった。新選組は見廻組とともに「遊撃隊」として伏見方面の警護を命ぜられた。屯所は伏見奉行所になる。すでに重要人物になっていた近藤は、大坂城に身をおき二条城の間をよく往復した。土方たちは「伊東の残党に気をつけてほしい」といったが、近藤は公務を優先した。
 同年12月18日、公務を終えて馬で帰る途中、伏見街道の藤ノ森付近で近藤は突然銃で狙撃された。撃ったのは伊東派の篠原泰之進・安部十郎・佐原太郎・内海二郎らである。幕医松本良順が治療に当たったが傷は意外に重く、半月後に起こった鳥羽伏見の戦いには近藤は参戦できなかった。ギリギリ歯を噛み鳴らしながら、大坂城内で身の不運を憤っていた。

 鳥羽伏見で敗れた近藤は幕府の軍艦で江戸に戻った。三々五々戻ってきた隊士を集め整備した。まもなく江戸にくる薩長軍(新政府軍)と決戦するつもりだ。が前将軍慶喜にはその気がなく、まわりにいる勝海舟たちも慶喜の恭順を支持している。そうなると近藤のような主戦派は邪魔になる。ある日近藤は勝に呼びだされ「甲府城を守ってほしい」といわれた。主戦派の追っぱらいだ。しかし近藤は承知し、新選組を「甲陽鎮撫隊」と改称して甲州に向かった。が、すでに新政府軍が甲府城を占領し近藤たちは散々に負けた。戻った江戸はすでに新政府軍の巣だ。そこで再起の拠点としてえらんだのが下総(千葉県)流山だった。近藤は会津にいって旧知の松平容保とともに、もう一戦かまえようと考えたのだ。土方も賛成した。が、その流山の拠点もたちまち新政府軍に包囲されてしまった。腕を組んだ近藤は予想外の決断をする。新政府軍への投降である。敗れつづけたものの、近藤の胸の中には悔いはまったくなかった。あるのは「少なくとも誠実さだけはつらぬいた」という自負と誇りの気持ちだ。どんな権謀にも術策にも、新選組は汚されずに「誠」の純度を保ちつづけた、という自信だ。この気持ちは土方もおなじだった。

「俺は生命のつづくかぎり薩長と戦うよ」
 土方はそういう。新政府とはいわない、薩長という。土方なりに「討幕」派の行動を、このようにうけとめているのだ。
 流山で近藤は新選組の残兵を整理再編成する。それが終わったところで近藤はひそかに土方に告げた。
「歳さん(昔の呼び方)、おれは薩長に自首するよ」
「? なぜだ」
 土方は目をむく。近藤は無言で土方の顔を凝視した。土方は近藤の気持ちをさとった。(時間かせぎをしておれたちを逃がすためだ)。
 しかし私は近藤勇は疲れたのだと思う。誠の心を使い果たしたのだ。近藤の心の中で「誠」の旗がはためいている。しかし旗が立てられているのは、懐かしい多摩の里の一角だった。

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童門 冬二

どうもん ふゆじ

どうもん・ふゆじ/1927年、東京都生まれ。東京都立大学事務長、東京都広報室長・企画調整局長・政策室長などを歴任し、1979年から作家活動に専念。著書に『韓非子に学ぶ ホンネで生きる知恵』(実業之日本社)、『小説 新撰組』『小説 上杉鷹山』(ともに集英社)、『新撰組 近藤勇』(学陽書房)など多数。


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