今川義元 生誕五百年祭が集大成へ! 駿府発展の礎を築いた「今川義元の功績を再評価する!」 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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今川義元 生誕五百年祭が集大成へ! 駿府発展の礎を築いた「今川義元の功績を再評価する!」

今川義元がつくった国・駿府を巡る

■義元による治世と商業政策 文化発展にも多大な貢献!

 今川義元が領国とした駿河・遠江・三河3ヵ国の石高は低かった。では、米の生産力が低かったにもかかわらず、義元が強剛(きょうごう)大名とされるのはなぜなのだろうか。じつは、卓越した商業政策があったのである。

 当時も、東海道は物流が盛んで、また、太平洋沿岸航路もかなり発達しており、義元は街道の宿や湊を掌握し、商品流通経済を盛んにすることで財源を確保していた。そのための施策として注目される一つが、駿府における商人頭がしらの存在である。

 義元の時代、城下町としての駿府には多くの商人・職人が集まり、人口は1万人を超えていたという。

 その商人に関して、武士が商人を束ねるのではなく、豪商の友野二郎兵衛尉(とものじろうひょうえのじょう)を商人頭にしていた。商人のことは商人にまかせるという形である。

 また、見付(みつけ)の商人たちに、町の自治を認めるということもやっている。天文10年(1541)5月、見付の商人の代表町衆から義元に、「それまで町からの年貢が100貫文だったのを50貫文上乗せするので、町衆による自治を認めてほしい」という要望があった。義元はそれを認めているのである。

今川氏の流通政策を示す今川義元判物
天文11年(1542)、江尻湊で三度市(三斎市)を開催することを義元が認めた文書。(静岡市蔵)

 

 そしてもう一つ注目されるのが金山収入だった。すでに義元の父氏親の時代から安倍金山・井川金山からの金の産出はあったが、そのころは主として砂金の採集で、そんなに産出量が多かったわけではなかった。

 ところが義元の時代には「灰吹(はいき)法」という新しい精錬法を導入して、産金量は飛躍的に増大していったのである。こうした卓越した領国経営の結果、京都から多数の公家・文化人を招くことができ、駿府は、周防(すおう)大内氏の山口、越前(えちぜん)朝倉氏の一乗谷とともに「戦国三大文化」の一つに数えられるようになった。

 和歌・連歌などの京都風王朝文化、雪斎主導の禅文化などが根をおろすことになったことが特筆される。

 

■義元の銅像がついに公開!駿府城には歴史文化施設!

JR静岡駅北口に建立される『今川義元像』
2020年5月19日除幕!!

生誕500年の昨年から始まったクラウドファンディングにより完成間近。竹千代君像に隣接される。

 静岡市内には、竹千代君像を含めて徳川家康の銅像が3体ありながら、これまで今川義元の像は一つもなかった。ようやく、今年5月19 日に、静岡駅前に義元像が建立されることになった。

 しかも、クラウドファンディングで建立されることに意味がある。

 また、駿府城の旧三ノ丸の一角に、静岡市が新しい歴史文化施設を建設中で、徳川家康関連の展示スペースを主としながら、今川時代のスペースも多くとるという話を聞いている。

 今まで、静岡というと即家康というイメージだったが、これからは今川義元も注目されることになる。

 

【駿府城公園巽櫓前に歴史文化施設(館内イメージ)】

家康を育てた今川氏の政策や文化関連史料の常設展示を計画。2022年度に開館予定。

 

【静岡市非公式のご当地キャラクター『今川さん』】

今川義元をモデルにした静岡市非公式のご当地キャラクター。以前は涙目になることも多かったがそれは桶狭間で信長に敗れて以来、「公家かぶれ」などとバカにされてきたのが悔しかったから。しかし、昨年の5月19日の「大好き宣言!」により、復権を果たし涙も取れた。

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監修・文/小和田哲男
おわだ てつお/1944年、静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。静岡大学名誉教授。今川義元公生誕五百年祭推進委員会委員長。日本中世史・戦国史研究の第一人者であり、NHK大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証なども務めている。著書には『今川義元』(ミネルヴァ書房)『今川義元 知られざる実像』(静岡新聞社)他、多数ある。

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