「いまを生きる」ということは、「今日が自分の最期の日になるかもしれない」と思って生きるということです。そうすることで、今日という日を、自分の人生の中で最善の一日にすることができるでしょう。(『今日を死ぬことで、明日を生きる』本文より
日本仏教に魅せられたドイツ人禅僧、ネルケ無方の著書『今日を死ぬことで、明日を生きる』より、珠玉のエッセイを紹介。生きるヒントが必ず見つかります。

■私たちは、毎日一呼吸ごとに「死」と「生」を繰り返している

 誰もが死は怖いもの。独りで死ぬのはなおさら怖いと感じるでしょう。子どもや孫に囲まれて、自然に平穏な死を迎えたいと思っても、そううまくはいかないものです。

 子どもがいたとしても、遠方に住んでいるかもしれません。自分より先に子どもが死んでしまうこともあり得ます。そして、子どものいない夫婦や、独身の方もいるでしょう。

 どんなに死が怖くなくなる方法を探しても、死が怖くなくなることはありません。

 室町時代の禅僧、一休さん「一休宗純(そうじゅん)」の最期の言葉は、「死にとうない」だと言われています。

 高僧ですら、「死にたくない」と思うのです。

 禅では、人生の最期に死ぬのではなく、いますでに死んでいると考えます。

 10年前といまの自分が同じでないように、一呼吸ごとに何回も何回も「私」というものは死に、また生まれているからです。

 私たちは、一呼吸ごとに少しずつ変わってるのですが、変化が少ないからそれに気づかないだけなのです。

 映画と同じように、私たちの人生も、1コマずつ流れているようなもの。

「私」というものは、本当は「いま」という1コマしかありません。

 死によっていままで積み上げた「私」が一気になくなると思われがちですが、実は毎日、一呼吸ずつ「私」はなくなっているのです。

 今日の「私」は、明日はいない。

 人は誰でも、一日一日「生」を手放しています。それに気づけば、少しは死の恐怖がやわらぐでしょう。

 私たちは毎日死ぬ練習をしています。

 呼吸を全部吐き出したら、自ずと吸う息が入ってきます。いつまでも吸えるわけではない。

 けれど、吸ったらまた吐くことができる。この一呼吸ごとに死んでは生まれる練習を繰り返しているわけです。

 死が怖いというのであれば、怖いで結構。怖くて死ねないという人はいません。

 怖くても、人はちゃんと死ねるのです。

 一休さんのように、「死にとうない」と言いながら死んだっていい。それも人間としては、すごく自然な気持ちです。

一呼吸ごとに、「私」が死んでいることに気づいたら、死はより身近になる。

今日を死ぬことで、明日を生きる』より