■首謀者を追い込み、さらには自らの地位確立をも成し遂げる

徳川家康(「肖像及伝記」国立国会図書館蔵)、前田利長(富山県高岡市)

 慶長4年10月3日、家康は諸大名に対して北陸出兵を指示し、利長の討伐を命じた。利長は城を修繕しており、武器を集めていたので謀反の嫌疑がかかったのである。家康出兵の事実を耳にした利長は、ただ驚くしかなかった。一説によると、前田家中では徹底抗戦派と抗戦回避派に分かれて、議論が行われたという。むろん、利長が独断で決めるわけにはいかない重大な問題だった。
 結論としては、家康との交戦を回避することになった。利長は家臣の横山長知を大坂の家康のもとに派遣し、謀反の気持ちがないことを釈明したのである。その回数は、三度にわたったという。長知は利長にとっては譜代の家臣ではあったが、利家に仕えたことがなかった。一方、利家に仕えた古参の家臣も少なからず残っており、利長もまた家臣団の統制に苦しんだといえる。
 長知の懸命な努力により、利長の嫌疑は晴れたものの、家康は利長を許すに際して一つの条件を提示した。それは、利長の母である芳春院を江戸に人質として送るというものであった。窮地に追い込まれていた利長は、不本意ながらも応じざるを得なかった。同時に、利長の養嗣子・利常と家康の孫娘・珠姫(徳川秀忠娘)を結婚させることで、交戦を避けることができたのである。
 ところが、家康による追及の手は、利長だけで終わらなかった。続いて家康は、利長と細川忠興が謀議に及んだと言い掛かりをつけて、忠興を疑いだしたのである。忠興もまた驚愕せざるを得なかった。忠興に嫌疑が掛けられたのは、子の忠隆の妻が前田利家の娘・千世であるからであった。このときは、忠興の父である幽斎が異心なき旨を家康に誓約することにより、家康の嫌疑を晴らすことができた。こうして、家康は疑わしい人物を次々と詰問し、従わせようとしたのである。
 家康が利長を攻撃しようとしたのは、彼が大身の大名として軍事力を動員できる点にあったからだろう。また、家康は五大老として豊臣政権における発言権を高めるため、あえて利長をターゲットにしたと考えられる。家康は本気で利長を滅亡に追い込もうとしたのではなく、利長を封じ込めることで家康与党を形成し、ほかの大名の統制を円滑に進めようとしたと推測される。
 家康は秀頼の後見を務めていたので、その家康に叛旗を翻すことは、秀頼に対する敵対行為になると考えた。家康は豊臣政権を支える重鎮として、秀頼を自身と一体化させることで威勢を保持したのである。こうして家康は、利長を封じ込めることに成功した。同時に、家康のもとで軍事力を動員できることも確認された。家康の威勢は、ますます天下に知れわたったのである。

 

【主要参考文献】
笠谷和比古『関ヶ原合戦―家康の戦略と幕藩体制―』(講談社学術文庫、2008年)
水野伍貴「加賀征討へ向かう動静の再検 ―会津征討との対比を通して―」(『十六世紀史論叢』第11号、2019年)
渡邊大門『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか―一次史料が語る天下分け目の真実―』(PHP新書、2019年)