■穴だらけだった? いままでの本能寺の変にまつわる諸説たち

信長を恨む光秀 『絵本太閤記』国立国会図書館

 天正10年(1582)6月2日、織田信長は京都の本能寺に滞在中、配下の明智光秀に強襲されて横死した。なぜ光秀が謀反を起こしたのかは、長らく日本史上最大のミステリーとされ、多くの説が提起された。また、2020年に光秀を主人公とした大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されることもあり、にわかに本能寺の変が注目されるようになった。

 もっともオーソドックなのが怨恨説(光秀が信長の冷たい仕打ちに反発した)、不安説(光秀が自身の将来を悲観した)、野望説(光秀が天下を望んだ)であるが、いずれも二次史料(後世に成った編纂物)が根拠になるので、現在では否定的な見解が強い。

 近年では、各種の黒幕説が提起された。「朝廷黒幕説」は信長が朝廷に対してさまざまな嫌がらせをするので危機を感じた。そこで、背後で光秀に指示をして、信長を討たせたという説である。しかし、近年の朝廷研究によって、信長が朝廷に行ったことは嫌がらせではないことが判明したので、「朝廷黒幕説」は成り立たない。

 「足利義昭黒幕説」は、打倒信長を悲願とする足利義昭が事前に光秀とつながっており、その命によって信長を討ったという説である。ところが、この説の最大の欠点は、史料の誤読に尽きる。あるいは、史料の深読みのし過ぎである。現在、残っている史料からは、義昭と光秀が変以前につながっていたことを証明できない。

 強いて言うならば、「四国政策説」は関係する一次史料(「石谷家文書」など)が豊富である。光秀は信長と長宗我部元親の取次を行っていたが、信長が四国政策の変更(当初の約束を破棄し、元親による四国切り取り自由を認めないとした)により立場が危うくなったので、信長を討ったというものである。ただ、この説も「光秀の立場が危うくなった」ことを示す史料がなく、非常に厳しいといえる。

 ほかにも「本願寺黒幕説」「イエズス会黒幕説」といったユニークな説があるが、いずれも質の悪い二次史料に拠っているか、著しい論理の飛躍か、まったく史料的な根拠がない妄想に過ぎない。とてもではないが、認めることはできない。ほかにもさまざまな説が提起されているが、似たような論法で首肯できない。

 本能寺の変のこれまでの説の特徴は、①質の悪い二次史料に拠る、②史料の完全な誤読、③論理の著しい飛躍、などに基づいている。プロが読めば、デタラメなことが一目瞭然だが、普通の方にはわかりにくいかもしれない。
 詳細については、拙著『本能寺の変に謎はあるのか? 史料から読み解く、光秀・謀反の真相』(晶文社)に書かれているので、ご参照いただけると幸いである。