光秀はなぜ朝倉氏を頼って
越前に逃れていたのか?

 ちなみに、光秀が越前に来ていたことを示す史料に相模・遊行寺(ゆぎょうじ)の31代住職・同念(どうねん)上人が記した『遊行三十一祖京畿御修行記(ゆぎょうさんじゅういちそけいきごしゅぎょうき)』というのがある。

 その中に「もともと濃州(美濃)土岐(とき)一家の牢人で、越前国の朝倉義景を頼り……」とあり、光秀は美濃の土岐一族の出身と知れる。

 この土岐氏と朝倉氏は、姻戚(いんせき)関係を結び、軍事的にも同盟関係にあった。その伝手などから朝倉氏を頼ったとみて良いだろう。

朝倉義景
越前朝倉氏第5代で最後の当主。治世中に光秀を越前に迎えた。 (心月寺蔵/東京大学史料編纂所所蔵模写)
朝倉館跡
当主の義景が住み、政治など諸事を行った場所。

 その『遊行三十一祖京畿御修行記』に「長崎(越前)称念寺(しょうねんじ)門前に十ヶ年居住」という記述がある。つまり光秀が越前の称念寺の門前で10年間暮らしていたということだ。県北部、現在の坂井市丸岡(まるおか)町にある称念寺は新田義貞(よしさだ)の菩提寺という歴史を持つ古刹で、光秀はその門前に夫人や家族とともに暮らしていたのだ。

光秀が門前で暮らしていたという称念寺
創建は養老5年(721)と伝わる。この門前町に光秀は10年間、家族とともに住んでいたという。
『遊行三十一祖京畿御修行記』
具体的な時期は不明だが光秀が長い間、越前に暮らしてたことがわかる貴重な史料。

 ご住職・高尾察誠さんの案内で本堂を見せていただく。堂内に光秀が拝んだという阿弥陀三尊来迎仏(あみださんぞんらいごうぶつ)が佇み、神々しい輝きを放つ。

 寺には光秀の妻が自分の黒髪を切って売り、連歌(れんが)会の準備をしたという伝説が残るが、境内の一角に松尾芭蕉が光秀夫妻を偲んで詠んだ歌碑がある。

「月さびよ 明智が妻の 咄はなしせむ」

 ここに来た芭蕉もそうした逸話に、大いに心を動かされたのだろう。

松尾芭蕉も光秀を詠んだ
松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中に、称念寺を訪れたと伝わる。

 

上洛前に再起の決意の地
越前でも住民に慕われていた

 一乗谷から西へ約4㎞のところには、光秀の小さな木像を祀る明智神社がある。史実としての根拠はないものの、地元では光秀の居所と伝承される地で、娘の玉(ガラシャ)の生誕地でもあると伝わる。ここの地元民が戦禍に遭わぬよう、手だてを尽くしたという光秀。住民らは今でも光秀を慕って「あけっつぁま」と呼んでおり、命日の6月13日には法要が営まれているそうだ。

明智神社(光秀屋敷跡)
この地に住んでいた光秀の遺徳を称え明治19年に地元住民が小さな祠を建てた。
細川ガラシャゆかりの碑
明智神社の境内に立つ。ガラシャは永禄6年(1563)ここで生誕したと伝わる。

 その法要における祭礼では御開帳が行われ、本尊である光秀の黒色の木像が見られる。周辺農家の方々が大切に守り抜いてきた、高さ13㎝ほどの小さな光秀坐像は、東大味(おおみ)町に住む人々にとっての心の拠りどころとなっているのだ。このように、今まであまり語られなかった光秀の善政ぶりや人物像が最近よく広まっており、遺徳(いとく)を慕う人々も多く、光秀人気が高まっている。

 越前各地に残る光秀の面影は、文献から得られる以上の感動を人々に味わせてくれる。

 大河ドラマ観賞と合わせ、ぜひ足を運んでいただきたい。