今年は、戦後75周年。しかし、長く低迷するデフレと新時代移行への国家的戦略がいまだ描ききれない日本社会。すでに貧富の格差は階級的に分断、「人の生命」も無縁化され、下方垂直的に多くの低所得者や若者の存在は「軽く」扱われてきている。改めて今、日本という社会は可能なのか? 分断される多くの「さみしい」個人が「生きる意味」をどう見出して行くべきか、『鎮魂 特別攻撃隊の遺書』の中から75年前に特攻で亡くなった大学生の遺書とともに考える。

◆一枚の写真から、時空を超え問いかける「生きる意味」

 ここに75年前にアメリカ海軍によって撮影された1枚の写真がある。1945年1月6日17時30分頃、フィリピン・中部ルソン島西岸リンガエン湾(北緯16度37分・東経120度17分)アメリカ海軍重巡洋艦「ルイスヴィル」に大日本帝国海軍艦上爆撃機「彗星」が低空から体当たりをする瞬間の写真だ。神風特別攻撃隊「旭日隊」吹野匡中尉と三宅精策少尉の搭乗機がまさに決死の覚悟で上空を覆う激しい対空砲火を回避しながら特攻を遂げる瞬間である。自分の命をかけて「攻撃」するその時、彼らは何を思っていたのだろうか。確実に死ぬことがわかってもそうさせる「生の意味」とはなんだったのだろうか。

1945年1月6日17時30分頃、写真右上の黒い機影が「旭日隊」吹野匡中尉・三宅精策少尉搭乗の特攻機、艦爆「彗星」。写真左が支援射撃任務の第77・2・2任務隊米国重巡洋艦「ルイスヴィル」。体当たり直前の写真。この特攻で巡洋艦指揮官を含む32名が戦死、負傷者56名に上った(『鎮魂 特別攻撃隊の遺書』より)

◆人の命がどんどん軽くなる時代を前に

  今年は、戦後75周年。1945(昭和20)年8月15日が「終戦の日」である。しかし、国際的には「敗戦」とみなされ、戦勝国の主導を許したが、結果的に、日本国は復興の礎を築くことができたことも確かであろう。
 米ソ「冷戦」にともなう「僥倖」で隣国、アジアでの内戦・戦争による「特需」や、その際に蓄積された原資で高次の「設備投資と技術開発」が可能となり、重化学工業の発展が未曾有の「高度経済成長」をもたらしたこと。さらに80年代には、地縁、血縁から「自由」になった分衆=「一個人」が消費を興ずる内需繁栄(バブル)の道を辿った歴史は中高年以上には周知されるところだろう。
 しかし、89(平成元)年の冷戦構造崩壊後以降、次第にグローバリゼーションの波に巻き込まれ、その後の長期にわたるデフレーションが輪をかけて国民生活の豊かさの象徴であった「中間階層」を分断。またその中間層を下支えしてきた安定的な「長期雇用慣行」も地滑り的に崩れて将来の不安、貧富の格差を「肌感覚」で感じさせられる現在(いま)に至っている。さらに長期にわたるデフレ(不安ベース)社会では、価値が高いのは「カネ」であって、「モノ」や、物を作り、サービスを行う「ヒト」などは「紙風船」のように価値が低く、軽くなっている。そんな中で、スマホで繋がらない目の前の他人は「存在しない」という本音が世の中を席巻しているようだ。
「自己責任」という言葉が、他人事であればあるほどネット上では声高に叫ばれ、いざ自分が生命の危機、「窮地」に立たされた時には、誰かに頼る「寄る辺」のないままその「代償」として「無縁死(軽く無視される命)」する可能性が高いの状況に置かれている。

 「人の命は地球よりも重い」と語ったのは、77(昭和52)年、日本赤軍が起こしたダッカ日航機ハイジャック事件で人質解放のため超法規的措置をとった福田赳夫元首相の言葉だが、もはや、現在ではそんなことを言おうものなら、当事者以外は、逆に「人の命は地球より重いわけないだろう草」などと「気分で」腐されるのがオチかもしれない。
 もちろん、この状況は、他でもない私たちが「選んだ」現在であって、それに対して批判などもちろんできない。むしろ、こうして綴るのは愁訴に近いかもしれない。そうなんとなく「さみしい世の中」になったなあ、というためらいでしかない。
 この「さみしさ」の現在にたどり着くこととなった敗戦から75年目のお正月、1945年の1月6日、フィリピン・中部ルソン島西岸リンガエン湾でアメリカ重巡洋艦「ルイスヴィル」に体当たりした京都帝國大学出身の一人の若者の遺書を紹介したい。
 当時も「悠久の大義」のもと命の価値が「軽く」されてしまった時代だが、死にゆく本人にとって高等教育を受けた人間の実存の問題として「自分の死が祖国日本を救うことになる」ことを「信じよう」としているその葛藤はあっただろう。でも、そこには当為の問題を自分の存在の意味とつなげて覚悟していたことも確かだろう。その葛藤する人間の言葉、命に対し75年後の現在の私たちは「再び」軽くなる「命」の意味をどう捉えればよいのか。 
  この正月休みの中でゆったり「自分事」として「生きる意味」を考えてみるのはいかがだろうか。

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