■東国を恐れた朝廷は藤原の繁栄のため法制度を造り替えた!?

改革派代表の聖徳太子像「集古十種. 古画肖像之」松平定信編 国立国会図書館蔵

 五世紀後半に始まったヤマト朝廷の改革事業。この難題を乗り切るには、新興勢力 の東国の力が必要不可欠だった。つまり、「強い王家」「中央集権国家」の構築にもっとも貢献したのは東国だったのである。 そこで浮上してくる次の問題は、八世紀の朝廷の不審な態度である。 
西暦七二〇年に編纂された『日本書紀』のなかで、東国は蔑視され、「西に支配される地域」と位置づけられた。そして、謎の三関固守が始まったのである。 
これも不思議なことなのだが、『日本書紀」は、壬申の乱の肝腎なことを書き漏らしている。天武が東国に落ち延びたとき、真っ先に東国の雄族・尾張氏が出迎えていたこと、尾張氏が軍資と行宮を提供したことを、ばっさり抹殺してしまっているのである。 なぜ八世紀にいたり、東国は裏切られ、歴史は改竄されてしまったのだろう。 
問題は、八世紀初頭の政権である。 天武天皇の崩御が、朱鳥元年(六八六)。『日本書紀』の編纂は、それから三十余年。 この間、何か大きな転換が起きていたのではあるまいか。
鍵を握っているのは、天武の皇后で、天武崩御ののち即位した持統天皇ではなかろうか。この女帝は、なぜか、中臣鎌足の子・藤原不比等を大抜擢している。そして藤原不比等は、平城京遷都(七一0)の時点で、朝堂のトップに立った。中臣鎌足といえば、天智天皇(中大兄皇子) の懐刀であり、持統は天智の娘だから、これでは、壬申の乱の直前の政権に後戻りしていることになる。 
壬申の功臣のあまた残るなか、どのような手管を用いて天智天皇の娘・持統天皇が即位できたのか、大きな謎だ。しかし、図式はまさに政変であり、守旧派の勝利を物語っている。  
ただし、律令制度が完成したのは、持統天皇や藤原不比等の時代なのだから、持統+藤原不比等の政権が、守旧派だったという話に、首を傾げられる方も多かろう。だが、持統らがめざした律令制度は、天武が構築しようとしていた律令制度とは、似て非なるものである。改革派がようやくの思いで育て上げた果実を、藤原不比等が横取りして、「藤原の繁栄のための法制度」に造り替えたにすぎない(詳細は、『古代史謎解き紀行I ヤマト編』新潮文庫)。そして、その証拠が、藤原不比等の東国に対する態度である。 天武の政権は、東国の力を得て勝利を獲得していた。これに対し、藤原不比等は「東国を蔑視する歴史書=『日本書紀」の編纂にかかわっている。このように、天武朝と持統朝は、敵対する政権にほかならない。しかもその証拠は、東国との向き合い方の なかに隠されていたのである。八世紀以降の朝廷が東国を仮想敵国に見立てていったのは、五世紀後半から七世紀 にかけて改革事業に取り組んできた政権を否定することにつながる。雄略天皇が革命 的な存在であったにもかかわらず、「大だ悪しくまします天皇なり」と罵ったのは、このような理由が隠されていたからだろう。もちろん『日本書紀』が中臣鎌足を英雄に仕立て上げ、一方で蘇我氏を大悪人に仕立て上げた理由もここにある。 
このように、「東国」というキーワードを当てはめてみると、古代史の多くの謎が解けてくるのである。 

2018年の5月から開始したこの連載も、37回目の今回が最後になりました。ご愛読いただいた方々に対し感謝の言葉で締めさせていただきます。ありがとうございました。

『聖徳太子は誰に殺された?』(ワニ文庫)より