1月6日発売の『歴史人』2020年2月号「明智光秀の真実」。本誌では残念ながら掲載できなかったいわゆる「こぼれ企画」の記事をWEBにて限定公開!

 今回はキャスト交代でも話題となった信長の妻「帰蝶」を特集します。

 これを読めば大河ドラマがもっと楽しくなる!

■光秀とは従兄弟? 信長の妻となった謎の女性

大河ドラマ「麒麟がくる」で帰蝶を演じる川口春奈さん

 天文4年(1535)、帰蝶(濃姫)は美濃国鷺山城で誕生したという。父の美濃国の戦国大名・斎藤道三は、「蝮」と恐れられる存在であった。母は明智光秀の伯母にあたる小見の方といい、道三にとって三人目の妻である。

「明智氏一族宮城家相伝系図書」を基準とした場合の家系図

 『明智軍記』や『大日本史料』所収の「明智氏一族宮城家相伝系図書」によると、帰蝶の母・小見の方の父は明智光継であり、光秀の父である光綱は小見の方の兄になっている。これが正しければ、光秀と帰蝶との関係は、いとこ同士ということになる。一説によると、二人は恋仲だったといわれているほどだ。

 しかし、根拠となる『明智軍記』は質が悪い史料と評価されており、「明智氏一族宮城家相伝系図書」やその他の二次史料にしてもあてにならない。つまり、光秀と帰蝶がいとこ同士だったという説は、たしかな一次史料で裏付けられないのである。

 おまけに、系図の類には、光秀が斎藤道三に仕えていたと書いているものがある。こちらも、同様に一次史料で裏付けられず、不確かな情報である。したがって、光秀が斎藤氏の麾下にあったことから出自を解明しようとする向きもあるが、根拠不詳と言わざるを得ないのが現状である。

 ところで、帰蝶の父・道三はあらゆる権謀作術を駆使し、仕えていた土岐頼芸(よりなり)の追放に成功し、美濃国一国を掌中に収めた。追い出された頼芸は、命からがら尾張国の織田信秀のもとに逃亡した。むろん頼芸は、黙ってはいなかった。

 頼芸の意向を受けた信秀は、道三の討伐を行うべく出陣した。天文16年(1547)以降、両者は戦いを繰り広げたが、同じ頃、織田家では三河国松平氏との戦いも抱えていた。二つの勢力との戦いが展開したため、織田家は不利となった。

 そこで、信秀は道三と和議を進めることとし、ついに翌天文17年に締結された。仲介を行ったのは、信秀の股肱の臣・平手政秀であった。両家の和睦の証となったのが、信長と帰蝶との結婚である。いうまでもなく政略結婚である。そして、実際に二人が結ばれたのは、天文18年のことであった。

 帰蝶が信長と結婚したのは、15才のときである。当時は、まだ「帰蝶」と名乗っていた。「濃姫」というのは「美濃国から来た姫」という意味であるが、今では「帰蝶」と称されることが多い。二人の結婚に関しては、『美濃国諸国記』『武将感状記』などの編纂物に多くの逸話が載せられている。

 輿入れの際、帰蝶は道三から短刀を手渡され、「信長が本当にうつけ者ならば刺し殺してしまえ」と言われたという。これに対して帰蝶は、「父上を刺し殺すかもしれません」と返答したエピソードがある。帰蝶はさすが「蝮」の娘といったところであり、気の強い女性をイメージするところである。

 そのような会話が交わされるなか、帰蝶の不審な動きを察知した信長は、わざと夜中に寝所を出て奇妙な行動を取った。帰蝶に理由を尋ねられると、信長は「斎藤氏の家臣から離反の知らせを待っている」と返答した。

 帰蝶は直ちに道三にこの情報を伝えると、道三は該当する家臣を刺し殺したという。以上の話は、おそらく道三や帰蝶が油断ならない人物であることを強調するためのもので、史実とは認めがたいところである。

 信長と帰蝶との間には子がなかったといわれ、あまり二人の交流は知られていない。豊富なエピソードの陰に隠れて、二人の真の生活にはわからないことが多いのである。没年についても不明であり、墓は京都・大徳寺(京都市北区)の織田家の墓所にあるという。