保守的だったイメージのある江戸幕府は、じつは開明的だった?(『明治維新に不都合な「新選組」の真実』吉岡孝 著より

■本当は薩長より「開明的」だった江戸幕府

嘉永6年『相模国久里浜浦四家御固』<さがみのくにくりはまうらよんけおかため>の図(部分)(横浜市中央図書館所蔵)

 令和元年(2019)7月21日、第25回参議院議員選挙が行われた。その選挙特番をテレビで観ていたら、司会者の池上彰が、「れいわ新選組」代表の山本太郎に向かって、次のような意味のことを言った。

「あなたは政治改革を目指すというが、それならば、なぜ新選組のような、体制維持の保守的な名前を使うのですか」

 今回は、このように新選組を体制維持・保守的と決めつける見識を「不都合な真実」と称する。明治維新を手放しで賛美して肯定し、「官軍」に敵対した「抵抗勢力」は「逆賊」であって、まったく歴史に貢献していないという思考が「不都合」という意味である。

 じつは近年の明治維新研究の学界動向は、江戸幕府の役割を高く評価するようになってきている。簡単にいってしまえば、江戸幕府は尊皇攘夷派の野蛮なテロ行為にもめげず日本を世界資本主義へとソフトランディングさせるために奮闘したという主張である。

 これは、たしかな潮流といっていいであろう。このような流れを、「新佐幕論」と揶揄する研究者も出てきているほどである。

 もちろん、細かい点に着目すれば、幕府再評価の動きは、古くからみられたことである。

 たとえば、幕末期の幕府で勘か ん定じょう奉ぶ 行ぎょうなどを勤めた小栗上野介忠順(おぐりこうすけのすけただまさ)<1827〜68>は、その代表的な人物である。

 蜷川新博士が『維新前後の政争と小栗上野の死』で小栗を顕彰したのは、昭和3年(1928)のことである。小栗は苦心惨憺して横須賀ドックの原型を造るが、「これができれば、たとえ幕府が滅亡しても、土蔵付き売り家の栄誉を得られる」と語ったとされる。

 この言葉は、いまドックさえ造っておけば、たとえ幕府は滅んだとしても、造船で日本の近代に貢献できる、という意味であり、小栗たち開明的な幕府官僚は、諸藩との対立という次元よりも一段高いレベルで、幕末の政争をみていたことになる。

 この話は、小説家の司馬遼太郎が紹介して有名になったが、元来は幕府きってのフランス通であった栗本鋤雲(くりもとじょうん)の『匏庵遺稿』(ほうあんいこう)に掲載されている話である。

 このように、小栗など幕府の特定の人物を再評価する動きは、以前からみられたわけだが、近年の動向は、幕府という権力体全体を再評価しているという点が特徴的である。

 まず外交面から、これを指摘してみよう。幕末の始まりといえば誰でもペリー来航を思い浮かべるが、これがすでに明治維新を理解する上で誤解を与える不都合な真実である。

 近年の研究では、幕府はすでにオランダから「ペリー来航」の情報を得ていたとされる。その証拠に、天然理心流「目録」(もくろく)の腕前であった浦賀奉行所与力・中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)が、嘉永6年(1853)6月3日にペリー艦隊旗艦サスケハナ号に乗り込んだ時には、通詞(つうじ)の堀達之助(ほりたつのすけ)を同道していた。

 また、その6日後の6月9日、幕府は久里浜(神奈川県)でアメリカ大統領からの国書の受け取りを行った。この時、上陸したペリーは日本人に武力を誇示すべくマスケット銃を兵士に持たせて行進させたが、ペリーは自分たちと同じマスケット銃を持っている日本人部隊を目撃している。中島三郎助らが率いる浦賀奉行所の洋式部隊である。

 ちなみに久里浜は、中島らの洋式部隊の訓練場であった。日頃慣れ親しんだ訓練場くらい、理想的な戦場はないであろう。もし両者が戦えば、日本側がアメリカ側を全滅させることなど容易であったに違いない。

 翌嘉永7年(1854)にもペリーは再びやってきて、日米和親条約が締結される。この条約は、もちろん不平等なところもあったが、たとえば交渉の席上、ペリーが交易を要求した時に、幕府全権とでもいうべき林復斎(はやしふくさい)は、「日本は外国と交易しなくても、少しも事欠かない」と明言し、この条約は「人命尊重」が主旨であり、交易は重要ではないと一蹴している。幕府はペリーの言いなりになっていたわけではなかったのである。