7万トン級の船を作る。艦政本部内の合言葉となった「A140-F5」。後の戦艦「大和」からは、多くの設計士たちの青春をその重さですり潰すかのごとく、いや、その国家的大事業への誇りと魅力に吸い込まれていく息遣いが聞こえてくる。福田啓二海軍技術中将の手記から「大和」にかける思いがひしひしと伝わるはずだ。(原勝洋 編著『戦艦大和建造秘録 完全復刻改訂版』より「戦艦大和いまだ沈まず」より引用)

海から空へ、時代の変革期のなかで「無用の長物」と言われた戦艦「大和」。
しかし、その長物であることと向き合い、それでもその船の力を最大化するために設計に情熱を傾けた「男たちの大和」のお話。船にかける思い(理念)が、着実にカタチ(現実)に向かっていく瞬間のドラマ、その熱波を感じてください。

■船体に沁み込む情熱

 もっともこれまでの先輩の遺産はせいぜい3万トン級の船である。これから一挙に7万トン近くの船(戦艦「大和」)を設計するのだから、筆紙に尽しがたい困難はあった。「大きな船を造るには、小さな船を引き伸ばせばよい」ということではない。大きさによって自ら構造が違ってくる。

 たとえば、蟻(あり)はその大きさに適した細い足を持っているが、では象のような大きさになっても元の通りの身体の均整でよいかというと、そうはいかない。その場合蟻はやはり象のように足を短くするか太くするかしなくては自分の重さを支えきれないだろう。

 こうして自然界がよく示しているように、機能的な働きをするものは、その大きさに適した構造を具えていなくてはならない。商船では英国の「クイン・メリー号」の7万トンという先例があるが、軍艦としてはこんどが初めてだ。この点がまず、私たちの独創を要求されたところだった。

 その日から夜昼分たぬ計算機との闘いが始まった。数字の虫、といったら、当時の私たちのよき形容になるだろう。そしてその結果を長さ数メートルの蝋細工の艦型の模型にしてプールに浮べてその抵抗の実験をする。普通の船なら2、3回でこの実験の結論を出してしまうのだが、こんどの場合はこれを20数種の船型について繰返したのである。

 一方「艦政本部技術会議」では丁々発止と激論が闘わされる。

「こんなに薄い甲鉄では防御上思わしくないのではないか」
「いや、これだけあれば敵の攻撃力とにらみ合せて十分である。それとも貴官は敗け戦を想定しているのか」
 などと、慎重派と強硬派に分かれて論が展開されることもあるが、何れも技術者の信念を拠り所にしていることには変りなかった。

 このようにして20数種の船型設計が試みられ、これが「高等技術会議」という軍事参議官を議長とする最高会議で決った時は、設計に着手してから1年半が経っていた。採決された艦型は設計符号「A140-F5」。まだ「大和」という名はついていない。この船は完成の日には当時建造可能の最も優れた船になるだろうという自信があった。

福田啓二(1890〜1964) 「大和」型戦艦の基本計画主務者で、海軍艦政本部第四部計画主任としてその設計に心血を注いだ。第四部長を経て敗戦時は同本部技術監、海軍技術中将

 ちなみに、もしアメリカがこのA140-F5に匹敵する46サンチ砲搭載の新戦艦を建造するとして、どんな性能の船になるだろうか、設計してみたことがある。これによると、アメリカでは絶対にA140-F5に勝るものは出来ない。というのは、アメリカの船はパナマ運河を通過出来なければ、意味がない。パナマ運河の水門の幅は110フィートであるから、これに合わせて設計すれば、A140-F5に比して非常に長さの長い、したがって釣合が悪く、防御力の弱いものになるのである。

 とすれば、帝国海軍の思惑通り、A140-F5は将来少数精鋭のホープとして、よく太平洋の王者たるだろうと思われた。
 しかし当時我々造船技術者としては、なおアメリカが大和をしのぐ大艦を計画しているのではないか、という疑念がなかったわけではない。

 艦政本部の顧問をして居られた東大の工学部長の平賀讓博士などは、私のところにきて、
「君、どうせ大艦巨砲なら、いっそ46サンチ砲を10門にしたらどうだい」と盛んに力説されていた。
 博士の言われるところでは、日米建艦競争の歴史を振り返ってみると、日本が画期的な新戦艦を造ると必ずアメリカはそれを上回る性能の艦を造ってくる。このシーソーゲームに止めをさすためにも、こんどこそ絶対にアメリカに冑を脱がせる弩級艦を造らなければならない、というのである。
 そしてこの「陸奥」、「長門」の生みの親は、御老体にもかかわらず、実際に自分で10門艦の設計をして持って来られた。これには頭が下った。常に尖端を歩まんとする技術者魂の亀鑑というべきだろう。博士の案は、砲搭設計の期間の関係上実現不可能となったが、その情熱は大和の船体に沁み込んでいるはずである。