■飛行艇大国日本が生んだ世界的名機・2式飛行艇

飛行中の2式飛行艇。本機は日本が実用化に成功し、さらに第二次大戦における実戦で、相応の活躍ぶりを示した唯一の4発機である。この機体は写真を撮影したPB4Y-1によって直後に撃墜された。

 日本は第1次世界大戦に、連合国の一員として途中から参戦し戦勝国の仲間入りをはたした。その結果、ミクロネシアの島々を国連委任統治領として獲得。しかし同大戦後の戦間期に入ると、日本はアメリカを仮想敵国に据えるようになる。ところが国際的なワシントン、ロンドンの両海軍軍縮条約で、日本はアメリカやイギリスに対して、戦艦以下の各種軍艦の保有隻数を少なく制限されてしまった。そこで日本海軍は、軍艦の少なさを航空兵力で補おうと考えた。

 だが、アメリカ西海岸から日本に迫る同国の大艦隊を迎え撃つために、中間海域に所在する南洋諸島を利用したくても、島嶼部は土地が狭く、よしんば土地を確保できても、大型機の離着陸が可能な長大な滑走路を造るには、建設機材の搬入から造成まで手間とコストがかかる。その一方、南洋諸島には熱帯域特有のリーフが発達しており、波静かなラグーンも多く、何ら手を加えずにそのまま「水上の飛行場」として、大型の飛行艇でも問題なく運用できた。

 かような事情に鑑み、海軍は川西航空機に対して索敵、対潜哨戒、爆撃、雷撃、輸送に対応可能な高性能の万能飛行艇の開発を指示。その結果、1938年1月に97式飛行艇が制式化された。同機は日本初の実用4発機で、当時、世界一の優秀な飛行艇だった。

 この成功に気をよくした海軍は1938年8月、97式飛行艇の後継機の開発を同じ川西に要請した。同社は、H8Kの略符号のもと高翼式の4発機で、超長距離飛行性能と良好な凌波性を求めて設計に着手。特に後者にかんしては、艇体前部下面左右の離着水時に水を切る部分に、「鰹節」の通称で呼ばれた消波装置を付与することで実現した。しかも驚異的な航続距離を誇るにもかかわらず、日本機中最良といってもよい防弾設備と防御火力を備えていた。

 かくして、またも世界水準を大きく超えた新型飛行艇を得た日本海軍は、本機を1942年2月に2式飛行艇として制式化。それに先立って、制式化前でまだ13試大型飛行艇と称されていた実用試験機2機を投入し、パールハーバーを爆撃する「K」作戦を実施した。これは委任統治領マーシャル諸島のウォッジェ環礁を出撃し、途中のフレンチフリゲート礁で着水し伊号潜水艦から燃料補給を受ける超長距離爆撃作戦で、1942年3月4日に行われた。その結果、2機ともオアフ島の爆撃には成功したものの、実質的戦果は得られなかった。しかしこの成功が、13試大型飛行艇(のちの2式飛行艇)の比類なき高性能ぶりを証明したのである。

 実用機の生産が始まって部隊配備が進むと、2式飛行艇は97式飛行艇と同様の任務に従事した。両飛行艇とも、哨戒飛行中のボーイングB17フライングフォートレスやコンソリデーテッドB24リベレーター(海軍型はPB4Y-1)と遭遇する機会が多かったが、特にアメリカ海軍の長距離哨戒爆撃中隊が主力装備としていた後者との空戦は度々起こった。かような状況下では、2式飛行艇は防弾も火力も97式飛行艇より優れており、ゆえに生残率も高く、時にPB4Y-1を撃墜している。

 日本軍飛行艇とアメリカ軍4発重爆撃機の間で戦われた空戦は、単発戦闘機のそれとは様相がまるで異なる。単発戦闘機の空戦では敵機の背後、すなわち6時方向を占守することが何よりも重要だが、4発機同士の空戦では、他にも効果的な戦法があった。例えば、軍艦同士の戦いのように同行戦で互いに可能な限りの銃座を敵機に向けて撃ち合ったり、上から覆いかぶさったり下から突き上げたりと、機体の上下に備えた全周旋回銃座や尾部銃座を駆使して戦うのだ。

 また、第二次大戦後半には国産の機載電探(レーダー)を装備した2式飛行艇は夜間索敵にも活躍したが、アメリカ軍のレーダーを搭載した艦上夜間戦闘機に撃墜されて未帰還になることも稀ではなかった。

 なお、2式飛行艇は2式大型飛行艇(通称:2式大艇)とも呼ばれ、輸送型は特に「晴空」と命名されていた。また、連合軍識別コードネームは「エミリー」だった。

【性能諸元】
全長:28.14m
全幅:38.03m
全高:9.17m
全備重量:約25000kg
最高速度:約460km/h
航続距離:約7100km
エンジン:三菱火星22型×4基
武装:20mm旋回機関砲5門、7.7mm旋回機銃4挺、爆弾または魚雷(航空魚雷2本)など最大重量約2tを搭載可能。
搭乗員数:10~13名
総生産機数:167機