「かあちゃんがぼくに初めて見せた涙は、痛かった」ーー。65歳を迎えた男性・かずさんが、亡き母へ宛てて書いた手紙は、こんな風に始まります。「母の日参り手紙コンクール」に応募された3000通を超える手紙の中から、書籍『亡き母への手紙』(KKベストセラーズ)に掲載された一通です。少年時代、貧しさゆえに兄とともに犯した「倉庫を襲った」過ち…。その時の想い出を綴ったかずさんの手紙と、かずさんから聞いた当時のことやその後の話を紹介します。

貧しさから兄とともに倉庫を襲ったぼくに・・・

手紙1「かあちゃんの涙
」 か ず さ ん(男性 65歳・京都府)

 かあちゃんがぼくに初めて見せた涙は、痛かった。
小学5年生の頃の話だ。

 


戦後20年、それでもぼくたちの暮らしは貧しくて、ジュースやサイダーを飲むことなど、とてもできなかった。せいぜい粉のジュースの素を水にとかして、その甘さを味わうのが関の山。甘さに飢えていた子ども時代だ。 ぼくと兄ちゃんは、思いあまって、町の酒屋の倉庫に盗みに入ることにした。倉庫の中には、新品のサイダーが山積みされているはずだったからなあ。

 けれど、倉庫にはなにもなかった。 ぼくたちの心に残ったのは、倉庫を襲ったという恐ろしい事実だけだった。 ぼくは、こわくなって、翌日かあちゃんに事実を打ち明けたよね。その夜、ぼくたちは、とうちゃんかあちゃんの前で正座させられ、きつく𠮟られた。 かあちゃんは、なにも言わずに泣いていた。ぼくは、まともにかあちゃんの顔を 見ることができなかったよ。

 なあ、かあちゃん。あのときのかあちゃんの涙が、ぼくにはきつくこたえたんだ。 歪んだ道を歩いてはいけないと強く教えられたんだ。
あれから、 50有余年。ぼくは、真っ直ぐに生きることのつらさや難しさを感じながらも、教員の仕事を続けてきたつもりだ。かあちゃんの涙の痛さが、ぼくの人生の土台を築いてくれたと今更ながらに感謝している。

 
かあちゃん、ありがとう。

 

<手紙『かあちゃんの涙』> の向こう側

 少年時代に、貧しさゆえに年子の兄とともに犯した『倉庫を襲った』という

 

過ち。それ を知って子供の前で流した『かあちゃんの涙』をふっと思い返し、綴った手紙です。 書いたかずさんは大学進学で故郷を離れ、その後 30年間は母と一緒に暮らすことはありませんでした。たまに逢うのはお盆や正月に帰郷したときぐらい。

「でも、いくつになっても甘えられる存在で、よく無理難題を押し付けていました」と振り返ります。

 母は晩年、認知症を患い、「このままではお父さんも倒れてしまうから、病院に行きます」と自ら進んで入院したそうです。

 すると、その1か月後にかずさんのもとに母の危篤を知らせる電話がありました。急いで駆けつけると、今まさに静かに息を引き取ろうとしているではないですか。父が「おーい、おーい」と声を掛ける中、『かあちゃん』は 年の人生を閉じました。


 それから 16年の歳月が流れています。

 教師をしていた父の姿を見て、「絶対、教師にはなりたくない」と思ったかずさんでしたが、気がつくと自分も同じ教師の道を歩むことに。教え子たちからいろいろ教えられ、 支えられて教師生活が全うできたとしながら、こうも語ります。

「今思うと、母はあのとき『痛い涙』を流すことで凛とした正義を示唆してくれた。結局、 それが自分を教師の道に導くことにもつながったのでしょう」

 自身も年齢を重ねるうちにそうした母との思い出がだんだんと薄れていく。「それが残念でしょうがないが、年老いていくということは、そうした記憶からも解放されることな のだろう」と自問します。 ただ、こうして手紙を書くことで、薄れていく母の記憶をひとつの形に残せたとも言います。

「手紙を書き上げてみて、ほっとしています」

【「母の日参り」パートナーシップ】 (編)

戦後70余年にわたり、我が国の家庭文化に深く根を下ろした「母の日」。近年、GWから母の日(5月の第2日曜日)にかけてお墓参りを行い、亡き母を偲ぶとともに家族の絆を確認することが、中高年を中心に広がっています。「母の日参りパートナーシップ」は、 「母の日」が実は「亡き母を偲ぶ一人の女性の呼びかけで始まった」という由来を知り、長寿社会の今後にも色褪せることなく、人々の心に豊かさをもたらす記念日であるように、ソーシャル・キャンペーンを展開している13団体が集結しています。