細川澄元の子晴元を復活させた阿波の三好氏

『絵入名将百史伝』中央出版社/国立国会図書館

 細川澄元は、三好之長とともに、10代足利義材を担いだ細川高国に反攻を試みるものの、永正17年(1520)の等持院表の戦いで三好之長を失ってしまう。

 そして、澄元自身、本拠地の阿波に逃れたのち、ほどなく病死してしまったのである。

 これにより、細川高国が幕府の実権を握ると、今度は対立した足利義材を追放し、すでに亡くなっていた11代将軍足利義澄の子義晴を迎えて12代将軍に擁立した。

 この時点で、細川高国が幕府の実権を掌握することになったのである。

 しかし、比類無き権力を手に入れた高国には、傲慢なところがあったらしい。

 近臣を手討ちにしたことから家臣団に動揺が広がり、政権が揺らぎ始めたのだった。これを好機とみたのが、等持院表の戦いで高国に敗れて処刑された三好之長の孫にあたる三好元長である。

 元長は、大永7年(1527)、阿波に逼塞していた細川澄元の子晴元を奉じて上洛し、高国を京都から追放した。この後、晴元と高国による覇権争いは続くが、享禄4年(1531)、ついに細川晴元が高国を滅ぼしたのである。

 その後、細川晴元は対立した補佐役の三好元長を討って幕府の実権を握ったが、天文18年(1549)、元長の子の三好長慶に追放されてしまう。

 以来、細川氏の実権は家臣の長慶に握られることとなった。

 長慶の死後、晴元の子昭元は足利義昭を奉じて上洛した信長に従ったが、もはや実権など無きに等しい。結局、信長の妹お犬の方を正室に迎えると、その実質的な家臣になったのである。

細川家の家督争いと三好家の台頭図 『歴史人』2017年8月号より

 (次回に続く)