■太平洋の島嶼戦で大活躍したモスキート・ボート

自身が艇長を務めるPT109のブリッジの前で乗組員たちと記念撮影をする若き日のケネディ(向かって右端の上半身裸の人物)。その足元に見えるのは魚雷発射管の前部。

 イギリスやドイツなどヨーロッパ列強の海軍は早くから高速魚雷艇を高く評価しており、第一次大戦後の戦間期の緊縮財政下でも、魚雷艇を含む高速小艇の研究を続けていた。だがアメリカ海軍は、第一次大戦で高速魚雷艇の活躍の場となった地中海やアドリア海、北海といった狭海面で戦ってはおらず、戦間期になると日本が仮想敵国とされたので、広大な太平洋での戦いに主眼を置くことになった。そのため、戦艦や空母、重巡洋艦のような大型艦が優先され、高速魚雷艇の整備は後回しにされていた。

 だがかようなアメリカにおいて、早くから高速魚雷艇の可能性に着目していた人物がいた。しかしそれは海軍軍人ではなく、陸軍軍人のダグラス・マッカーサー(当時はまだ少将)だった。1935年にフィリピン軍の軍事顧問に着任した彼は、島嶼国家フィリピンの沿岸防衛に、高速魚雷艇が最適と判断したのだ。

 1937年、アメリカでは高速魚雷艇の開発がさほど進捗していないことを知った彼は、1939年にイギリスからソーニークロフト社製の高速魚雷艇3隻を購入してフィリピン沿岸警備軍に配備。その後、同国には開戦直前にアメリカ海軍第3魚雷艇隊が配備された。そして同隊のPTボート(Patrol Torpedo Boat。アメリカ海軍における高速魚雷艇の名称)が、のちに勃発する太平洋戦争の緒戦における日本軍の大攻勢で降伏寸前となったフィリピンから、マッカーサーを脱出させたのだった。

 同じ1937年、海軍のウィリアム・パイ少将を長とする一派が、PTボートの開発と戦力化を強く推進する論考を発表。後年「デモクラシーの兵器工場」と自負することになるアメリカは、その気になれば高速魚雷艇の建造など容易になし得るだけの工業力を備えており、小型高速艇の先輩で「ヨーロッパの兄弟」でもあるイギリスからも技術導入がしやすかった。

 小型高速艇を建造するには、三つの要点をクリアーしなければならない。ひとつは、小艇に適した軽量大出力エンジンを造れる能力、もうひとつが、やはり軽量で強靭な艇体を造れる能力、そして最後が、小型高速艇の性格からして数を揃えなければならないため、量産できる能力であった。だがアメリカは、この三つの能力を全て備えていた。

 最終的に1941年7月、「プライウッド・ダービー(「ベニヤ板競争」といったような意味。PTボートの艇体の材料に因む)」と称された性能比較試験が催され、その結果、ヒギンズ社とエルコ社が開発した高速魚雷艇の大量生産が決まった。かくして両社の艇長70~80フィート級のPTボートが量産され、加えてハッチンス社の艇もわずかに建造された。これにイギリスのヴォスパー社が設計した艇の建造も行われ、第二次大戦中、アメリカは総計770隻ものPTボートを建造したが、このうちイギリスに73隻、ソ連に166隻を供与している。

 PTボートは、艦艇というよりも航空機に近い感覚で運用できる要素を備えていた。そのため、作戦海域の沿岸部に恒久的な基地が設営されるまでの間、艦上機にとっての空母ではないが、水上機母艦やLSTを改造した高速魚雷艇母艦(PTボート・テンダー)を洋上の基地として作戦を展開することもあった。

 PTボートは、大型艦乗りから「プライウッド・バトルシップ」や「モスキート・ボート」の蔑称で呼ばれたりもした。だがソロモンや中部太平洋島嶼部、フィリピン諸島などでの戦いにおいて、島影に隠れて機動する日本軍の大発のような小舟艇狩りや、上陸作戦時の味方の舟艇の護衛に、代わるべきものなき存在として大活躍したのだった。

 ちなみに、若き日のジョンF.ケネディ大統領は、エルコ社製のPT109が日本の駆逐艦天霧に衝突されて沈没した際、同艇の艇長として、乗組員を生還させるべく救援を呼ぶために英雄的活躍をしたことで知られている。