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海防意識の温度差―紀淡海峡篇

外川淳の「城の搦め手」第99回

 外国からの侵略に対処するには、隣接する藩同士が協力体制を整えるべきだった。だが、江戸時代において隣接する藩同士は不仲なのが相場であり、協力することなく、海防意識もばらばらだったため、強力な海防体制が整えられることはなかった。
 そこで「BEST TIMES」の89回と90回では、親藩大名の松江藩と外様大名の鳥取藩の海防意識の温度差について分析を加えてみた。
今回は、紀淡海峡を挟んで向かいあう紀州藩徳川家と徳島藩蜂須賀家の海防意識の温度差について分析を加えてみたい。
 長大な海岸線を持つ紀州藩は、異国船接近に対して意識が高く、黒船来航の以前から、領内の40数か所に台場を築造した。構造的には、いずれの台場も小規模であり、大砲の設置数は3~5門程度だった。
 

友ヶ島池尻台場。紀州藩が築造した旧式台場の典型例。

 

 

 

 

 対する徳島藩は、海洋に面していても、紀州藩と比較すると、内海に位置していることもあり、黒船来航まで台場の築造には無関心だった。
だが、黒船来航後、危機意識が高まると、領土の淡路島に新式の大型台場を建設。幕府や朝廷から称賛されるほど、当時の日本では最高水準の台場として高く評価されている。

高崎台場。紀州藩が淡路島に築造した当時の最新式台場である。

 一方の紀州藩の台場は、設置砲が整備された程度に過ぎず、海防体制という面では徳島藩リードを許している。
つまり、黒船来航以前は紀州藩が旧式台場を築造していたのに対し、徳島藩は無関心。それが黒船来航以後は、徳島藩は最新の台場を築造したのに対し、紀州藩の台場は旧式なままというように紀淡海峡の海防体制はマダラ状態だったといえる。

 

 すでに紹介した松江藩と鳥取藩と同じように、譜代・親藩大名が黒船来航以前から数多くの旧式台場を築造したのに対し、有力外様大名は黒船来航以後に少数精鋭の台場を築造する傾向が強かった。

 なお、当時の大砲の射程距離では、紀淡海峡を封鎖することは不可能だったのも事実。

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外川 淳

とがわ じゅん

1963年、神奈川県生まれ。早稲田大学日本史学科卒。歴史雑誌の編集者を経て、現在、歴史アナリスト。



戦国時代から幕末維新まで、軍事史を得意分野とする。



著書『秀吉 戦国城盗り物語』『しぶとい戦国武将伝』『完全制覇 戦国合戦史』『早分かり戦国史』など。



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