全国5位730万人もの人口を抱える埼玉県の歴史を地名で紐解く。地名の由来シリーズ最新刊『埼玉地名の由来』から、古代武蔵野国の歴史をたどる。

武蔵国の中心は「埼玉」にあり!

「武蔵国」は現代の埼玉県・東京都のほぼ全域及び神奈川県の一部から成っている。そのエリアは古代から現代に至るまで基本的に変わっていない。

 その中心は国府が現在の東京都府中市に置かれたために、東京都にあると思われがちだ。「武蔵野」というと、東京都の多摩地方をイメージする人が多いのも、それを象徴している。

 だが、古代のある時期まで、武蔵国一帯の中心地は現在の埼玉県であった。言い換えれば、埼玉県エリアは「裏武蔵」ではなく、かつては「表武蔵」であったということである。

写真を拡大 ▲武蔵国の郡の分布

 現代は、武蔵国どころか日本全体の中心が東京であり、埼玉県も千葉県も神奈川県もその東京の衛星圏でしかないと見られがちだが、古代においては逆であり、埼玉県や千葉県に中心があり、後に江戸となる東京二三区などは単なる入り江でしかなかったのである。

 その歴史をきちんと追うことによって、現代人にこびりついてしまっている東京中心意識に修正を迫りたい。

 よくよく考えてみれば、武蔵国の中心が埼玉県であったと思われる歴史的事実はいくつもある。

 さいたま市の旧大宮市に鎮座する「氷川神社」は武蔵国の一宮(いちのみや)とされている。東京都府中市にある大国魂(おおくにたま)神社は武蔵国の「総社」であるので、一宮である氷川神社のほうが格上である。「総社」(惣社)とは、当該国の格式高い神社(多くは六社)をまとめて勧請して
祀った神社のことである。

 さらに、昭和43年(1968)に稲荷山(いなりやま)古墳で「金錯銘(きんさくめい)鉄剣」が発見されて一躍全国に名をとどろかせた埼玉古墳群は行田市にある。また、秩父地方は武蔵国ができる前に「知々夫」という独立国家であったという事実もある。

 いったい、これらの歴史的事実と府中に置かれたという国府とはどんな関係になるのか……これは個人的にずっと昔から疑問に思っていたことである。

 この疑問を解く鍵は、ある単純な事実に隠されていたことに気づいた。次回よりまずその事実から探っていこうと思う。

『埼玉地名の由来を歩く』(著・谷川彰英)より構成〉