いまも昔も、ポピュリズムの危険性は変わらない

 家族や小さな共同体で助け合ってきた農民たちは、農業不況によって苦境に立たされていた。一方、都市では個人主義的な営利主義が蔓延っていて、財閥が経営する鉄道会社や銀行が彼らを苦しめていたのである。アメリカにおける理想的な市民とされ、アメリカの中核を担っていると自負する農民たちは、都市や資本の抑圧に対する義憤を抱いていたのである。

 そのため、「人民党」は政策として、累進課税制度の導入、鉄道、電信、電話の公営化、8時間労働などの当時としては急進的な政策や、人民投票、人民発議、リコールなどの直接民主制的な政策を掲げた。選挙に臨むと、「人民党」の大統領候補は有権者の9%にあたる約100万票を獲得し、上下両院に合わせて十数人の議員を送り込むことに成功した。

 だが、「人民党」が掲げる「ポピュリズム」は二大政党の一角である民主党に取り込まれることとなる。1896年の大統領選挙の民主党全国大会では、不況とデフレの元凶と考えられていた金本位制に反対して銀貨の自由鋳造による通貨量の増大を政策に掲げた若干36歳のウィリアム・ジェニングス・ブライアン(1860~1925)が、「労働者に茨の冠をかぶせ、人びとを金の十字架(金本位制から生じる苦境)にかけるべきではない」と主張する、いわゆる「金の十字架演説」によって指名を勝ち取った。ブライアンの政策や考え方は「人民党」と近かったため、「人民党」も独自の候補を出すことなく、ブライアンを候補として指名した。

 この1896年の大統領選挙では、急進的なブライアンに危機感を感じた大実業家たちから多額の選挙資金を得た共和党のウィリアム・マッキンリー(1843~1901)が僅差で勝利する。ブライアンはこの後も合計三回、大統領選挙を争ったもののいずれも敗れている。だがその後、1913年にウッドロウ・ウィルソン大統領(1856~1924)によって国務長官に任命され、累進課税制度、女性参政権、上院議員の直接選挙、禁酒法などの「革新主義運動」による改革の下地を作ることとなった。

 その一方、「人民党」は民主党候補に相乗りしたことで存在意義がなくなり、その組織と支持層は民主党に吸収されることとなった。このことが、アメリカの民主党がリベラルな政策を掲げるようになったきっかけの一つともなっている。

 

 とはいえ、19世紀末のアメリカにおける「ポピュリズム」には大きな負の側面も存在する。「人民党」の綱領にあるように、ポピュリストたちは大資本との対決姿勢を鮮明にしたが、大銀行や大企業などの資本はユダヤ人に握られているとして、陰謀論に基づく反ユダヤ主義に傾いていた。

 また、「人民党」が黒人票を十分に獲得できなかったのは黒人の無知に由来するとしたポピュリストたちは、やがて激しい人種分離主義者となり、南部における「ジム・クロウ法」と呼ばれる人種差別的な諸法の制定を推進することとなった。

 このような陰謀論や人種差別の他にも、ナショナリスティックな排外主義、知識人への反発、移民への恐怖など、現在の「ポピュリズム」が備えている性格の多くを備えていたのである。

 何事にも利点と欠点、長所と短所があり、批判されることが多い「ポピュリズム」にもその両面がある。様々な形の「ポピュリズム」において表現されているのは、民衆にとって切迫した問題への、建前を抜きにした直接的で本音に基づく不満であろう。その全てをそのまま受け入れるわけにはいかないとしても、「人民党」の主張を取り込んだ「革新主義運動」のように、社会をより良くしていくための問題提示として受け入れていくことはできるのかもしれない。