大学では対面授業がようやく再開。コロナ禍でも有意義な社交の場をもつために【福田和也】 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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大学では対面授業がようやく再開。コロナ禍でも有意義な社交の場をもつために【福田和也】

福田和也の対話術

 

 

 

■機能の流れに逆らう

 

 でも、そんな場所をどうやって作ればいいのか、とお尋ねになるかもしれません。

 よくぞ聞いて下さいました。

 実際、どう作ればいいと思いますか?

 こんな風に申しあげると無責任だと思われるかもしれません。でも、社交については、きちんとした作り方などないのです。それよりも、どういう形に社交の場所を作るか、という意識が大事なのです。人との交際において、ただ人をつきあう相手として見るだけでなく、いかにして社交の場所を作るか、という意識で眺める、ということ。

 つまり、常に社交の場を作るという意識に立って人や場所を観察するということ。要するに社交のプロデューサーとして、人と世間を眺めるのです。

 当然のことながら、こうした意識をもつことは、漫然と自分の好みや利益だけを考えて人とつきあうのでなく、自分が作る、関係する社交の空間をいかに活性化し、演出するかという、一段と高く、深い意識から眺めることになります。

 会社とか、学校のクラブなどで、忘年会の幹事をしたことがあるでしょう。

 幹事の役目をすることになると、いろいろなことが気になりますね。集まるメンバーのこと、会場のこと、予算のこと。当日でも、席の並び方から料理やお酒の塩梅(あんばい)、そして何よりも盛り上がっているか、といったことが心配だと思います。

 役目として、幹事をやるのは気が重いものです。けれども、幹事はまた宴の場の演出家でもあるわけで、その采配によってその場のすべてを支配できる。

 しかもそうした演出をすることで、つまり場に身を委ねる側でなく場を作る側に立つことによって、一段と高い位置から全体を見渡せるのです。してもらう側ではなく、する側にいるということ。これは、かなり重要な違いなのですが。

 確かにお客は気楽です。しかし、招かれる者よりも、招く者、招く者としての責任を引き受ける気概のある人間だけが、世間を動かしていくことが出来るのです。招かれる者の安楽さに凭もたれている限り、主体的に世間にかかわることはできません。逆に云えば、常に招く側の責任感と創意をもつことが、意欲的に生きていくための資格なのです。

 仕事場での幹事は、失敗を許されない責任がともないますが、それが自分のプライヴェートな場所だったらどうでしょうか。それはなかなかに面白いことだと思いませんか。

 と云うと、何だか異業種交流会や、合コンの幹事を勧めているように聞こえるかもしれませんがーーまぁ、そういう役割を果たすというのも、若い人には大事な経験だと思いますけれどーー、そうではありません。社交の場と云うとつい、具体的な場所とか機会を思い浮かべてしまいがちですが、酒場とかサロンとか、あるいはカクテル・パーティなどがそのまま社交の空間ではないのです。無論そういう場面は、社交において不可欠ですが、それだけで、社交が成立はしません。

 というよりも、こういう場面は社交の現象面にすぎないのであって、本体ではないのです。

 では、社交の本体とは何かと云えば、人の繋(つな)がりがなす織物のようなものではないでしょうか。人々の繋がりが、生き生きと息づく場所として酒場があり、またその紡(つむ)ぐ場所のひとつとしてパーティなどがあるのです。

 人の繋がりを、どう作っていくか。そこが社交の醍醐味でしょう。あなたの知っている、あるいは知り合った人間同士をどのように結びつけていくか。未知の人と人との、ただ必要ばかりでなく、好みや位置などを考えて紹介する、結びつけることから、社交の場が形成されるのです。

 かくも情報が氾濫し、あらゆる便宜が提供されているなかで、どうしても機能化出来ないのが、人と人との出会いであり、関係の発展なのです。というよりも、こうした社交は、こうした機能化の流れと逆行するところがあるのです。

 小難しい話をして非常に恐縮ですけれども、フランスの現代思想の名著の一つである、G・ドゥルーズとF・ガタリの共著『千の高プラトー原』の中では「社会」と「社交」を対立的に扱っています。「社会」というのは、人間を組織化するとともに機能化していく流れです。そこでは、人はその組織の中での位置によって区別されて、人と人との繋がりは、位置によって決定され意味づけられるのです。

 一方で、社交はこうした機能化の動きに逆行するものです。社交は、位置や立場と関係のない、社会的な機能の中では出会うはずのない人たちを出会わせ、組織化をすることなく瞬間の発光のなかで現実を変えて動かしていく、一種の賭けなのです。

 無論、社交といえども、社会的な位置そのものを無視出来るものではありません。しかし社交的な結びつきのなかには、そうした位置とは別の、裸の人間性ともいうべき人格の、つまりは語義通りの人間としての格が問われるのです。この「格」というものは、その人の感受性や配慮、視野の広さ、積極性、勇気などが試されるのです。

 逆に云えば、「社交」とは、社会的な位置をもたない人や、諦(あきら)めている人にではなく、むしろその位置を求めている人によってこそ切り回されるべきものでしょう。

 日本のシステムの中では、位置が高くなればなるほど、「人格」の向上が難しくなる傾向があります。位置が、ある種の保護をもたらすからです。これは大企業の役員などを見ているとよく解ります。送り迎えのハイヤーと仕事熱心な秘書、そして周囲の配慮によって、「位置」の高い人は、快適な密室に閉じ込められて、自然と自らの格を試す機会を失うのです。もちろんこういうケースは極端ですが、順調にエリートの道を歩めば歩むほど、位置の魔力が人格を麻痺させてしまいがちです。

 私はけして、「位置」を求めるな、と云っているわけではありません。旺盛な人生には、また位置が必要です。だとするならば、位置をもち、手にした人間こそ、人格を試す機会の必要性を認識するべきです。

 私のもっとも尊敬する社交の達人は、西部邁先生ですね。西部先生はまず数人で集まって呑む時には、必ず話題をいくつか用意していらっしゃるし、その場にいる人間がみな会話に参加出来るように常に気を配っておられる。

 もっとも感動的なのは「位置」による偏差がまったくないことです。初対面の一学生でも、一生懸命話せば、何時間でも相手をされる。一方高位の人であっても、礼に欠けていたり、愚にもつかない発言をすると許さない。私は一度同席させていただいた時に、先生が超一流官庁の事務次官にたいして「バカ、黙れ」と云っているのを見て仰天したことがあります。

 かような達人となるには、社交の能力だけでなく、人品教養も比較を絶して高くなければなりませんが、このような方がいてこそ、人の輪が、集まりが出来、そこでのつきあいが活性化するのです。

 

『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』より本文一部抜粋)

 

 

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社会、国、人間関係、自分の将来に
不安や絶望を感じている読者へーーー。
学び闘い抜く人間の「叡智」がここにある。

文藝評論家・福田和也の名エッセイ・批評を初選集! ! 
◆第一部「なぜ本を読むのか」
◆第二部「批評とは何か」
◆第三部「乱世を生きる」
総頁832頁の【完全保存版】

◎中瀬ゆかり氏(新潮社出版部部長)
「刃物のような批評眼、圧死するほどの知の埋蔵量。
彼の登場は文壇的“事件"であり、圧倒的“天才"かつ“天災"であった。
これほどの『知の怪物』に伴走できたことは編集者人生の誉れである。」

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福田 和也

ふくだ かずや

1960年、東京都生まれ。慶應義塾大学文学部仏文科卒業。同大学院修士課程修了。慶應義塾大学環境情報学部教授。93年『日本の家郷』で三島由紀夫賞、96年『甘美な人生』で平林たい子賞、2002『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』で山本七平賞、06年『悪女の美食術』で講談社エッセイ賞を受賞。著書に『昭和天皇』(全七部)、『悪と徳と 岸信介と未完の日本』『大宰相 原敬』『闘う書評』『罰あたりパラダイス』『人でなし稼業』『現代人は救われ得るか』『人間の器量』『死ぬことを学ぶ』『総理の値打ち』『総理の女』等がある。

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