農夫に変装して信長を待つ

 1579年(天正7年)の秋、信長は上洛のために近江の膳所(滋賀県大津市)を通過しようとしていました。事前に情報を得ていた弥左衛門は農夫に変装して近くの森に身を隠し、火縄銃を片手に信長が到着するのを待ちました。
 この時の信長は、馬に乗って、朱の傘を差していました。弥左衛門は信長の姿を確認すると、すぐに狙撃の準備に入りました。
 信長の周辺にはわずかな手勢。狙いを信長に定め、冷静に引き金を引きました。
 銃声と共に大きな衝撃音がありました。信長が狙撃されたことを悟り、慌てふためく信長の近習たち。
(ついに、信長を撃った……!)
 火縄銃の腕に確固たる自信があった弥左衛門には、確信があったことでしょう。しかし、目線の先の喧騒の中には、無傷の信長の姿がありました。
(なぜだ……!)
 信長に向かって真っすぐに放たれた銃弾は、なんと手前の朱傘の柄に当たり、信長を捉えることはできなかったのです。
(なんと運の強い男だ!)
 すぐに近習たちの捜索が始まったため、弥左衛門はその場を離れて、難を逃れました。

 こうして信長暗殺は失敗に終わりますが、この翌日に「謀術」を得意とした弥左衛門ならではの大胆不敵な行動を取ります。
 なんと弥左衛門は、菓子折りを持って信長に拝謁をしたといいます。そして「昨日の狙撃は、おそらく伊賀か甲賀の忍びの仕業です」と言って、自ら犯人捜しの役目を願い出て許されたというのです。
 信長に一杯食わせた弥左衛門ですが、暗殺を失敗したことには間違いありません。そこで弥左衛門は、これから2年後に、再び信長の銃暗殺を試みるのです。

 1581年(天正9年)、信長は自らの差配の下、伊賀の平定に取りかかりました。
 弥左衛門は暗殺の機会を窺っていましたが、5万を超える織田の大軍を相手に伊賀の諸城は瞬く間に陥落していき、その機会はなかなか訪れませんでした。そして1ヵ月もしない内に伊賀は織田軍に制圧され、伊賀の村や寺院は焼き討ちにあい、郷士たちだけでなく住民たちの多くも殺害され、伊賀は地獄絵図と化したそうです。

 故郷のその惨状を見た弥左衛門は信長を深く恨み、同じく伊賀の郷士の原田木三と印代(いじろ)判官と共に、信長の銃殺の計画を立てました。三人は普段から仲が良く、1人で四貫目(約15㎏)の米を平らげるほどの大食漢同士で、文学に暗く、無学でわがままという共通点があったといいます。
 弥左衛門を中心とする似た者同士の3人組は、その計画を実行に移します。現場となったのは敢国(あえくに)神社(三重県伊賀市)でした。
 伊賀平定直後の10月10日、伊賀の検分に訪れていた信長は休息のために敢国神社を訪れていました。この神社は伊賀の総鎮守とされた一の宮で、いわば伊賀忍者たちの精神的支柱とも言える神社でした。弥左衛門たちは、神社周辺の地理は自分の庭のように知り尽くしていたことでしょう。

 
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