私欲のない政治家は良い政治家か |BEST TiMES(ベストタイムズ)

BEST TiMES(ベストタイムズ) | KKベストセラーズ

私欲のない政治家は良い政治家か

思想史から読みとく「政治とカネ」の問題

政治家に必要なのは心情よりも責任

 政治とは権力に関わるものである。そして、政治という職業は人を動かす権力を預かっているという意識と、歴史的な出来事の一端に関わっているという感情から、一種の昂揚感を人に与える。だからこそ、政治家には権力にふさわしく、権力の責任に耐えられる倫理的な資質が備わっていることが不可欠となるだろう。では、政治家に必要な倫理的資質とは具体的にはどのようなものなのか。

 ヴェーバーは、倫理に基づいた行動を「心情倫理」的なものと「責任倫理」的なものの二つに区別する。心情倫理とは、たとえば不正に対する純粋な反発などの心情に基いているが、もしそれを正すための行動の結果が失敗に終わったら、その失敗の責任を「世間が悪いから」というように他人に転嫁するようなものである。

 革命や抵抗運動などの多くは心情倫理に基づいているが、目的を達成するためにはどこかで暴力を正当化しなければならなくなる。政治には暴力が決定的な手段とならざるを得ない領域があり、倫理的に善い目的のために手段としての暴力をどこまで認めるかという問題から逃げることはできないのだ。政治家として政治に関わるということは、暴力に潜む悪魔の力を認め、受け入れ、契約を結ぶということなのである。

 だからこそ、政治家の行動は心情倫理ではなく、責任倫理に基づかなければならないとヴェーバーは論じる。たとえ、自らの行動によって悪い結果が導かれる可能性が想定されたとしても、全ての結果の責任を引き受け、暴力に潜む悪魔の力を認めたうえで、それでもなお、こうするより他にないと考えて行動するということが、ヴェーバーが考える責任倫理に基づいた政治家の行動である。

 これから、参議院選挙が行われ、東京では続けて都知事選挙も行われる。各党、各候補者ともに、表面的な心情に訴えかけるような公約やマニフェストを掲げることだろう。今の時勢からすると、金のかからない清廉な政治をと訴えるものも数えきれないほど多くなるはずだ。もちろん、それも大切なことである。
 だが、何よりも重要なのは、候補者が清廉なだけでなく、清濁併せ呑み、全ての責任を引き受けられるような資質を持ち合わせているかどうかということではないだろうか。
 短い選挙運動期間の喧騒の中で、候補者の資質を見抜くことは難しいかもしれないが、頭の片隅にはヴェーバーの警句を入れておきたいところである。
 

オススメ記事

大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


この著者の記事一覧