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源義経は屋島合戦の際、平氏方の捕虜からある“重要な情報”を聞き出していた

激突! 源平合戦の軌跡 第5回

全国で反平氏勢力が膨張し、源氏を中心に“平氏討伐”が掲げられるさなか、平清盛は病没してしまう。弱体化した平氏は都を落ち、西へ逃れるも、頼朝・義経ら源氏は、一ノ谷、屋島へと、次第に追いつめて行く……。壇ノ浦で平家が滅びるまでの一部始終に迫る連載。

壇ノ浦の平知盛像(手前)と源義経像(奥)

屋島の平氏は背後から急襲され海上へと追いやられた

 一ノ谷の戦いから1年後の元暦2年(1185)2月16日夜半、源義経が率いるわずか5艘・20騎(150騎とも)は荒れ狂う風波のなか、摂津渡辺(大阪市)から四国へ向かって出帆した——屋島攻めの日付については、義経からの報告を載せている九条兼実の日記『玉葉』による——。
 渡海にあたっては、淀川河口の港津を拠点とする渡辺党の協力を取りつけ、屈強さで知られた土佐の梶取(漕船の責任者)も乗り込ませていたという。

 翌17日、阿波勝浦(徳島県)に上陸した義経軍は、平氏方の桜庭城(徳島市桜間)を落としたのち、阿波・讃岐の国境、大坂峠を越え、18日に至って、屋島の平氏を背後から急襲し、海上へと追った。屋島の戦いである。
 なお『平家物語』は、義経が屋島を攻めるにさいし、捕虜にした平氏方の阿波武士から、平氏がその兵力を四国の津々島々に分散して配置し、また有力武将が大軍を率いて伊予方面へ出陣しているため、屋島防衛の軍勢が1000騎足らずであること、および屋島と陸の間の海は(現在、屋島は高松市街の半島だが、当時は独立した島)、引き潮の時には馬の腹もつからないほど浅いことなど、重要な情報を聞き出していたと伝えている。

 

 一方、前年9月初め、頼朝の命をうけて西国の平氏追討に京都を出発した義経の兄範頼を大将軍とする軍勢も、兵粮米や兵船の確保に苦労しながら、この時期、ようやく山陽道から九州へ入っていた。
 当時、西国攻めの範頼が置かれていた苦しい状況については、範頼が鎌倉の頼朝に宛てた書状のなかに(元暦元年11月14日発信、翌年正月6日着信。『吾妻鏡』)、「兵粮米の欠乏により、遠征軍の兵士たちの心が一つにならず、それぞれ本国を恋しがり、半数以上の者が逃げ帰りたがっている」と記されていることなどからもうかがうことができる。

◎次回は、5月18日(木)に更新予定です。

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樋口 州男

ひぐち くにお

1945年生まれ。山口県出身。日本史学者。現在、拓殖大学非常勤講師。日本中世の「歴史と伝承、絵巻・絵図」などを主に研究、執筆。著書に『中世の史実と伝承』(東京堂出版)、『日本中世の伝承世界』(校倉書房)、『武者の世の生と死』(新人物往来社)、共編著に『図説平清盛』、『図説平家物語』(ともに河出書房新社)、『再検証・史料が語る新事実・書き換えられる日本史』(小径社)、『木曾義仲のすべて』、『西行のすべて』(ともに新人物往来社)など多数。


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