細川家を復活させた政元暗殺の犯人

写真を拡大 廃嫡される恐れがあった細川澄之『続英雄百人一首』錦耕堂刊/国立国会図書館

 

 応仁・文明の乱で東軍を率いた細川勝元は、まだ乱が続いているさなかの文明5年(1473)に病死していた。そして、このときわずか8歳の嫡男政元が勝元の跡を継ぐことになったのである。 政元は、文明10年、13歳で元服した。

 ちなみに、政元の「政」の字は、言うまでもなく将軍足利義政の偏諱である。名実ともに管領細川氏の当主となった政元は、領国の丹波や摂津などでおきた国一揆に対しては力で押さえつけるなど、強権的な政治を行っていく。

 そして、ついに明応2年(1493)、10代将軍足利義材の廃立を図るまでになったのである。これを明応の政変とよぶ。 この直前、将軍の義材は、畠山政長と対立する畠山義豊を討伐するために京都を出陣し、河内へ向かっていた。その隙に、京都に残っていた政元が、堀越公方足利政知の子義澄を11代将軍として擁立し、義材を追放してしまったのだった。 これ以降、細川氏が管領をほぼ独占し、専制政治を行うようになる。この専制政治は、管領細川氏の当主が代々右京大夫に任ぜられていたことから、右京大夫の唐名「京兆尹」にちなんで「京兆専制」とよばれる。

 しかし、政元は修験道に傾倒しており、妻帯することなく修行にはげむありさまだった。妻帯しなかったので、当然のように実子はおらず、養子として関白九条政基の子澄之を迎えていた。さらには、家督を一族からと考える家臣の意向も受けて、阿波守護細川氏から細川成之の孫にあたる澄元も養子として迎えている。

 こうしたなか、澄之の補佐役であった香西元長らには、澄之が廃されるのではないかという不安があったのだろう。家督が澄元に譲られる前に、政元を亡き者にしようと考えたのである。永正4年(1507)6月23日、政元は自邸の湯殿で行水をしていたところ香西元長らによって暗殺されてしまう。享年は42だった。

(次回に続く)