■平成を代表するキラーコンテンツ「漫画」の礎を築いた天才

 一方、最期まで仕事への執念を燃やし続けたのが、手塚治虫だ。気力体力ともケタはずれで、同世代の漫画家・加藤芳郎は弔辞において「十人分以上の」仕事をしたと語った。

 しかし、長年の無理がたたってか、昭和63年3月に入院。本人には胃潰瘍と告げられたが、現実は胃ガンだった。手術して仕事を続けたものの、11月、中国でのアニメイベントから帰国してそのまま再入院。元号が替わってほぼ1ヵ月後の2月9日、60歳で亡くなった。

 それでも、病床で新作の着想に励み、日記の最後のページにはこんなメモが記されていた。

「一九八九年一月十五日 今日すばらしいアイデアを思いついた! トイレのピエタというのはどうだろう。癌の宣告を受けた患者が何一つやれないままに死んで行くのはばかげていると、入院先のトイレに天井画を描き出すのだ。(略)」

 やがて、昏睡状態に陥ったが、ナースが手をとり「ああ、この手であんなにたくさんの漫画を描かれたんですねぇ」と言うと、突然目を開け「縁起でもないことをいうな!」と怒ったというエピソードもある。

 ただ、歌謡界の「女王」とマンガの「神様」の退場は、平成の新たな文化の台頭を加速させた。ひばりの遺作『川の流れのように』をプロデュースした秋元康はこれでハクをつけ、アイドルグループ・AKB48などでJポップシーンを席巻していく。また、予算や時間を軽視しがちな手塚アニメに懐疑的だった宮崎駿は、手間ひまかけた長編にこだわることでジブリアニメを世界的なブランドに成長させた。

 思えば、アイドルもアニメも、平成を代表するキラーコンテンツだ。その礎を築いた巨人ふたりが元年に亡くなり、世代交代が進んだことは時代の神秘かもしれない。

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