■5代・綱吉の時代から江戸は白米が溢れる町に

 江戸前期まではまだ戦国の遺風も残り、生活もそこまで戦国時代と違うほど
ではありませんでした。ところが武断政治は3代・家光まで。4代・家綱から
は「文治政治」に大きく舵は切り替わり、以後「泰平の世」が幕末まで続きま
す。

 元禄時代は5代・綱吉の時代で、最初に書いたように「庶民(町人)の文化」が開花しました。

 当然ですが食生活も向上するわけで、ここで初めて「江戸の町は白米が溢れる稀有な町」となったのです。

 それまで庶民は戦国時代よろしく玄米や片搗米を食べていました。脚気は白米を食べられる富裕層の病であり、その患者数は人口から見れば少ないものでした。

 しかし経済的にも生活も豊かになるにつれ、庶民も米ぬか(この場合はビタミンB1)を取り除いた「白米」を常食するようになります。

 これが彼らの健康を奪うのですから微妙なのですが…。

 そもそも江戸の町は極めて特殊な町で、当時の日本でダントツに「米が溢れる町」でした。乞食でさえ、「米が食えなきゃ死んだほうがマシ」と。それぐらい「お米が氾濫している町」「お米が食べられないなんてありえない町」だったんですね。

 その理由は簡単です。お武家様が人口の半分を占める、武家の町。

 ということは、彼らのお給料たる「お米」が(換金のためもあり)江戸の町中のお米屋さんに満ち満ちているわけです。そして当時は米俵ですから、どうしても俵のそばにはお米が多少なりとも零れて落ちていたりするものです。

 こうして江戸の町は「日本唯一の白米の町」となったため、江戸在住者の
みビタミンBが常に欠乏→江戸の町で脚気が広まるようになったのです。

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