■「兵科別編成」で信長を討ち取った天才・明智光秀

 軍法を定めてから一年後、光秀はこれを使い、自らの軍隊が天下人に勝てることを証明します。

 天正10年(1528))6月、少数で京都本能寺に入った信長は同月2日、明智光秀の軍勢に、四方を取り囲まれ、押し寄せられます。光秀は「今度、西国へたつので、その御暇(おいとま)を乞うため」として、その軍隊を信長の寝所である本能寺に向かわせ、「御近衆ノ者十四五人ばかり」という少数で本能寺に滞在する信長の「油断」をつきます(『蓮成院記録』)。 急襲を受けた信長は、抗する術もなく、燃え盛る寺院の奥で自害しました。

 本能寺の変は、石高制の「軍法」によって兵科と隊伍を備えた光秀の軍隊が、最初から最後まで少数行動と現地集合を旨とする信長を急襲して死に追いやるという一大事件でした。信長自身は少数の馬廻のみを連れて、彼らに命令をくだす。大軍を率いる大将は、信長への個人的忠誠心でこれに従う。そして結果を出す。しかし、こうした体制は、ほとんど運任せと言っていいぐらい危機管理の意識を欠いていることを光秀が実証したのです。

 信長の旧式軍制は、光秀のような大将が、信長とその馬廻に対峙した瞬間に破綻するぐらい脆いものだった。上杉家や北条家では考えられませんが、織田家では重臣に託した領地の経営から兵隊の管理まで丸投げしていました。だから、その光秀が謀反の覚悟を決めると、その兵士と領地は織田軍から明智軍へと一瞬にして変じてしまったわけです。

 大将の光秀が信長、光秀の手元にいる「二万」の人数は、簡単にまとまってしまう。いっぽう東国大名は馬廻を少数のまま維持するのではなく、多くの武将を馬廻化して、直属の軍事力を増強していました。

 光秀は信長に勝利できたものの、自分の領地から直接人数を引き連れるほかの織田大名に対抗する戦力を備えておらず、山崎合戦で光秀は羽柴秀吉に敗れ、すべては〝三日天下〟に終わってしまいます。しかし、当時最先端の軍隊統制を行っていた光秀は、のひとりだったと言えるでしょう。

〈第4回につづく〉