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災害は「天罰」なのか。清水幾太郎の怒り

関東大震災を経験した社会学者の言葉を読む。

■清水幾太郎が抱いた反感

 授業前にこのような経験をした清水は、教師の話に強烈な反感を抱いた。
 
「私は、平静な気持ではなかった。いや、仮に笑われなかったとしても、もし先生の説明を受け容れるならば、このクラスで私だけが天物暴殄の罪を犯して、私だけが天譴を受けたことになるのではないか。私のことなど、どうでもよい。貧しい、汚い、臭い場末の人々、天物暴殄に最も縁の遠い人々、その人々の上に最も厳しい天譴が下されたことになるのではないか。私は、先生の説明が一段落つくのも待たずに、右のような趣旨の質問をした。先生が何とお答えになったかは覚えていない。何とお答えになったとしても、私は「天譴」及び「天物暴殄」という観念を受け容れることは出来なかった。しかし、もし野村先生御自身が焼け出されたり、ご家族を失ったりして、それでも、「天譴」や「天物暴殄」のお話をなさったのなら、私は強く反対しなかったであろう。しかし、先生は何の被害も受けていらっしゃらなかった。」(清水幾太郎『流言蜚語』ちくま学芸文庫、303-304頁)
 
 関東大震災を「天譴」として捉える見方は、当時の風潮として一般的だったようだ。特に、明治維新以来、文明を進展させ、対外戦争に勝利し、ブルジョワ的で退廃的な社会になった日本に対する「天の怒り」としてとらえる見方が多かったようである。

 ブルジョワジー打倒を目指す改革論者、共産主義者の中には、金持ちや権力者に対して鉄槌が下され、一時的にでも貧しい生活を強いられることとなった状況に喝采する者までいた。たしかに、名士と呼ばれた人物が被災して、命を落としたり、家財を失ったりした事例も少なからずあった。だが、関東大震災の一番の被害者は、一帯が焼け野原となり、10万人以上の命が失われた下町の庶民である。

 もし、震災がブルジョワ社会の腐敗に対する「天譴」であるならば、罰はその当事者だけに下されるはずだ。本来、「天譴」とは古代中国に端を発する「災厄が起きるのは為政者の「徳」が失われた証であり、災害などが起きるのは天による為政者への叱責である」とする考え方である。だから、「天譴」によって罰が下されるのであれば社会の中枢にいる者に対してであるはずだ。

 

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大賀 祐樹

おおが ゆうき

1980年生まれ。博士(学術)。専門は思想史。

著書に『リチャード・ローティ 1931-2007 リベラル・アイロニストの思想』(藤原書店)、『希望の思想 プラグマティズム入門』 (筑摩選書) がある。


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