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「神功皇后は卑弥呼である」説の信憑性

神功皇后と三韓征伐の 知られざる真実④

 しかし、このことはさておいて、引用された『魏志』倭人伝の中にみえる倭の女王とは卑弥呼のことである。この点を重視するならば、『日本書紀』の編纂者は、卑弥呼と神功皇后とを同一視していたとも考えられるのである。
『日本書紀』の中にみられる『魏志』倭人伝の引用ということでは、さらに、神功皇后摂政40年条にも記述がみられる。その内容は、魏が正始元年に建忠校尉である梯携らを倭国へ遣わして、詔書と印綬を与えたというものである。ちなみに、ここにみられる正始元年とは、240年のこととされる。

 

 これらに加えて、神功皇后摂政43年条にも『魏志』倭人伝が引かれている。それによると、正始4年に倭王が大夫の伊聲耆・掖邪狗ら8人を魏へ送ったとある。この中に出てくる倭王もまた、卑弥呼のこととされている。
『日本書紀』では、神功皇后摂政紀に続く神功紀でも新羅や百済などとの交渉記事がみられる。その中には、七支刀が百済から伝来したという有名な記事もみられる(神功紀52年条)。これらのことから、『日本書紀』では、神功皇后と卑弥呼とを同一に考えていたともいわれるが、これには異論もあり、簡単に断定することは難しい。

 卑弥呼の他にも神功皇后との関連を女帝に求める説がみられる。たとえば、初の女帝として知られる推古天皇や、夫の天武天皇の後を受けて律令制の導入を進めた持統天皇があげられるが、655年から661年にかけて在位した斉明天皇も有力である。

 斉明は、舒明の死後、642年に皇極天皇として即位し、645年の乙巳の変で孝徳に譲位したが、孝徳の死後にふたたび重祚して天皇になった人物である。斉明の時代には百済の滅亡といった大事件があり、百済を救うために天皇自らが先頭に立って軍勢を派遣したが筑紫の朝倉宮で没した。こうした朝鮮半島への出兵という点が神功皇后とイメージが重なるのである。

(次回に続く)

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