そう、師匠は「超合理的思考」ですべてをショートカットして日々の処理をしていたのです。原稿、テレビ番組の企画書、送られてくる書籍など、瞬時に内容を把握し、信じられない速度で情報を吸収してしまう天才なのです。

 目的地へ向かうにしても、常にショートカット。また根っこからの江戸っ子ですから、東京中の道という道はすべて頭の中に把握しています。今みたいなナビのない当時は悲惨でした。まあ、ナビがあったとしても「文明に頼るな」と、弟子には使わせなかったでしょうけど。

 師匠のワゴン車の助手席で、3年間九州にいて東京の道路なんかわかるはずのない入りたての私が、地図を見て頼りなげに車を誘導していると、師匠のイライラ感はより促進されます。

「おい、この先、本当に行けるのか」の問いかけに、私はしどろもどろで「は、地図では行けるかと思います」と答えます。そして案の定、行き止まり。ガーン。仕事に向かう切迫感とあいまって、師匠のカミナリはマックスを迎えるのです。

「ほーら、みやがれ。行けねえじゃねえか、バカ野郎!」

 今、こうして書いているだけであの頃の戦慄がよみがえります。

 また、高座で「落語の神となるぐらいの芸」をする師匠なのですが、オフの時は、それはそれは「愛妻家で子煩悩の普通の人」となるのです。ファンの立場で見れば幅のある魅力的なギャップなのですが、弟子にしてみればこのギャップについていけません。結果、そのオドオド感がより師匠に不快感を与えてしまい、怒り爆発という負のスパイラル。まして、「鳴物入り」とまでは言いませんが、「慶応(大学)を出て大企業を経由してきたやつだ」という前情報は伝わっています。

 師匠も私の現実を嘆き、「こんなに使えないやつだとは・・・」となってしまう構図。

「前座修業とは、俺を快適にすること」と書きました。師匠を快適にすることで、落語家として必要なエッセンスを身につける期間なのです。

 さらに「修業とは不合理、矛盾に耐えること」との定義から「落語家のセンスを磨く」ための激しい「無茶ぶり」をされ続けます。