さらに清は、イスラム教徒である回族と現在のチベット人にあたる蔵族を抱き込んで、満・蒙・漢・回・蔵の五族による国となります。これはもちろん、一九三二(昭和七)年の満洲国建国にあたり理念として掲げた五族協和の起源です。ただし満洲国の五族は、日本人・朝鮮人・満洲人・蒙古人・漢人です。満洲自体にチベット人がまるでいなかったのと、日本人がイスラム教徒のことをよくわかっていなかったのが理由です。

 清での民族としての序列はそのまま満・蒙・漢・回・蔵です。回と蔵には目立った優劣、優先・後回しの差はありません。清朝は五つのネーション、つまりそれぞれ国家に近い民族集団からなる帝国すなわち大清帝国でした。

 大清帝国は、建国以来二百年の栄華を誇りました。しかし、第六代乾隆帝の末期から衰退し、一八九五(明治二十八)年の日清戦争の敗戦で決定的に落ちぶれます。以後、清国は列強の草刈り場とされます。

 満洲人は北京を首都としましたが、満洲自体は父祖の地として、漢民族の流入を禁止していました。いざというとき、逃げ帰る場所としてとっていたのです。しかし、一九〇〇年の北清事変のドサクサでロシアが居座ってしまいます。皇帝から全権委任された欽差大臣・李鴻章は、ロシアとの間に、満洲北部の鉄道路線、東清鉄道の建設許可といった密約も結びました。軍隊や軍事物資を運ぶのに鉄道は欠かせませんから、ロシアの軍事基地として差し出したのです。総理大臣自ら国を売る。末期症状です。李鴻章は漢民族でしたから、満洲人父祖の地などどうでもよかったのかもしれません。

北清事変(義和団の乱)天津の戦い

 ロシアは満洲の南の朝鮮をも併合しようとしましたから、日本としてはたまったものではありません。日本は最初、ロシアが満洲に居座るのは認めるから、朝鮮には来ないでくれとの「満韓交換論」を提案しました。しかし、ロシアは日本など相手にしません。そこで「三十九度線より南には来ないでくれ」と最後の要求をしましたが、無視されました。

 こうして、一九〇四年に日露戦争が始まります。この戦争で朝鮮と満洲が戦場になりました。清も朝鮮も、日露戦争に中立を宣言しました。中立を完遂するためには、日本とロシアの両方を追い出さなければいけませんが、そんな力は清にはもはやありません。もちろん朝鮮にもありません。清としては、朝鮮の程度まで落ちぶれた。どん底です。

 一方の日本は快進撃で、朝鮮半島北部の三十九度線どころか満洲までロシアを押し返します。

 日本にとって、日露戦争は、「これで日本は安泰だ」が実現した戦いでした

満洲の範囲

『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』より抜粋 

次回は、2ndシリーズ②「お人よし日本」は今に始まったことではない。です。