古代・北辺の交流の要、「こしの国」の古墳を巡る。 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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古代・北辺の交流の要、「こしの国」の古墳を巡る。

古代遺跡の旅【第3回】 

【弥生時代から古墳時代へ。一つの遺跡で壮大な時代絵巻を見る】

緑の高原に歴史好きにはたまらない風景が広がる古津八幡山遺跡。

 

● 国指定史跡 古津八幡山遺跡(ふるつはちまんやまいせき)

 広大な蒲原平野(かんばらへいや、越後平野)を流れる、信濃川と阿賀野川の間に突き出た新津丘陵(にいつきゅうりょう)の北西の端に立地する古津八幡山遺跡。
 ここは高地性の環濠集落(かんごうしゅうらく)で、この集落もまた、斐太遺跡群と同じように高い地域に、周囲に濠を巡らせて造られている。環濠の広さは南北約400m、東西150mにも及んで、竪穴住居51棟が見つかっている。
斐太遺跡群でも触れたが、高地性の環濠集落について、少し詳しく書いてみようと思う。そもそも、海や川からも遠く、平野部に比べて、稲作にも不向きな高地に人々は暮らしたのは、前述した通り、『魏志倭人伝』に記されている「倭国の大乱」に関係があるのではないかといわれている。
 この頃、クニのあちこちで起きていた国内の争乱の影響で、ムラを守るためにムラごと高地に移住し、環濠を掘って襲撃に備えた「防御的」な集落が、各地に造られたのではないかという。こちらの集落では、3世紀中頃までその営みが続いていたが、つまり、その頃まで防御的な暮らしをせざるを得なかったといえる。
 そして、古墳時代になると人々は丘から降りて、麓で暮らし始めた。古墳時代とはつまり、ヤマト王権が国を平定して、一つにまとめ上げていく時代だ。人々の平野部への移住は、大乱が治まって、世がたいらかになったことの証ともいえるだろう。

緑の高原を歩いていくと、弥生時代の竪穴式住居が目の前に現れる。

 丘の上まで遊歩道を登っていくと、緑の芝生で美しく整備された緑の高原のような景色がポッカリと目の前に広がる。あちこちに復元された弥生時代の竪穴住居が点在して、どこか平和でのんびりした雰囲気が漂っている。でも、周りに掘られた環濠を見ると、外敵からムラを守っていたという緊張感が見て取れる。学芸員さんに話を聞くと、おそらく稲作は平野に降りて、仕事が終わるとまた丘の上の集落に戻る暮らしではなかったかという。当時は海岸線もすぐ近くまで迫っていて、海の恵みなども収穫していたのだろう。

 復元された家々を見ていると、家の陰から弥生人がふと現れてきそうな感覚になる。こういう景色は、今まで何度も見たけれど、今回は何かが違う。
 おや?集落の端にある、あの、もっこりとした高まりは??筆者の好きな前方後方墳??と思いきや、なんと前方後方形周溝墓(ぜんぽうこうほうしゅうこうぼ)だった。古墳時代前夜の時期の墓のかたちで、ここから古墳がかたちづくられていったという説もあり、古墳の原型とも考えられるそうだ。
 サイズ感もちょうどいいし、前方後方とはいえ、角々がゆるやかな感じで、どこか可愛らしい。まだ、前方後方墳になりきれないような、そんなゆるさがいい。環濠の内側に築造されているので、当時の暮らしと墓域の近さを見て取れるが、古代、生と死はとても身近なところにあったのかもしれない。

なんともゆるやかな感じが好ましい、前方後方形周溝墓。

 

 前方後方形周溝墓の存在だけでも、充分、面白いのに、なんと、これで終わりではなかった。緑に包まれたような高原を進んでいくと…。ああ、なんということだ。青空の下にポッカリと、円盤が舞い降りたような感じで古墳が現れた…!
古津八幡山古墳だ。
 直径60mの円墳、新潟県内の古墳としては最大級の大きさだという。
墳丘に登ると、蒲原平野が遠くまで、青空の下、広々と見渡せる。丘陵先端に築造されているので、きっと平野からもこの墳丘は、ランドマークのように見えていたに違いない。堂々たる地域の王墓として、人々から崇められていたのだろう。
 この古墳が築かれる400年ほど前の、人が暮らした弥生時代後期から、人々が去って墓域となる古墳時代までのこの土地の変遷を、時代背景とともに、リアルに見ることができる。まさに、この緑の高原では、古代の時代絵巻が眼前でするすると展開していくのだ。

雨がすっかり晴れて、青空の下、気持ちよさそうに古墳がのんびりと佇んでいた。
弥生時代から古墳時代へ、歴史の絵巻物を見るような古津八幡山遺跡。空撮の写真からここが丘の上にある遺跡だということもよくわかる。人が住み、去り、墓域となっていくその時代の流れを体感できる。

 

「この“こしの国”をはじめ、富山などでも農業の適地でない山の上にこういう環濠集落があることが少しずつわかってきたんです。私自身は、直接、中国史書の倭国の乱と結びつけるかどうかは検討課題だと考えています。ただ、弥生時代の終わりから古墳時代に移行する頃、つまり、2世紀から3世紀前後あたりで、どうやら防御性を伴う高地性の集落が、日本海沿岸の広い範囲の中で広がっていて、かつ、次の時代を迎える時にはその機能をなくしている、という現象が見られるんですね。古墳が出現する前夜に大きな社会的な変革のようなものが広い範囲に起きていたことが、墓制や集落のあり様の変化から見て取れると思います。そして集落のあり様の変化があった土地には、比較的古い時代の古墳が築造されているんですね。そういう地域同士、結構、古い時期から同じような時代感を共有化していたのではないか?とも考えられます。日本の古代という時代は、途切れることなく他の地域の『波動』を互いに共有化していったのではないか?というふうに考えています。その『波動』の影響は、ここ古津八幡山遺跡にも、前出の観音平古墳群にも、斐太遺跡群にもきちんと現れているのは間違いないと思います」(今尾先生談)

 その波動を実感したのは、古墳巡りとは別に、前出の斐太遺跡群にある「上越歴史館 釜蓋遺跡(かまぶたいせき)ガイダンス」という展示施設を訪れた時だった。
 斐太遺跡群は弥生時代の吹上遺跡、斐太遺跡、釜蓋遺跡の3遺跡で構成されているが、何より興味深かったのは、これらの吹上遺跡で出土した土器だった。北陸系や長野系の土器が展示されていたのだ。
 北陸系は白い土器、信州系は赤い土器として施設内に展示されている。この辺りに集落が造られた頃は北陸系の白い土器が多く、約100年後には信州系の赤い土器が多く、さらに200年ほどすると再び、北陸系の土器が多くなるという。この変化はこの地に住む人たちの構成の変化であり、どのような社会の変遷があったのか、興味深い。新潟、つまり「こしの国」は、北陸や長野を結び、さらにヤマトからのルートも持ち、多くの人が広い範囲で活発に行き来していたと考えられ、古代から交通と文化の要衝だったことを今に伝えている。

上越妙高駅を降りてすぐのところにある釜蓋遺跡公園。公園内にガイダンス施設がある。
釜蓋遺跡ガイダンスの白い土器と赤い土器の展示コーナー。吹上遺跡からは、白い北陸系の土器と、赤い信州系の土器が見つかっている。約2,200年前に玉作りが盛んだったころは、北陸系の土器が7割、約2,100年前に玉作りが減少し、大きな墓が造られるころには信州系の土器が7割と土器の割合が逆転するという。約1,900年前に小さな墓がたくさん造られるころには北陸系の土器のみになっていくのだが、なぜ土器の割合が変化したのかは、今後の課題だという。

 

「“こしの国”では、縄文、弥生、古墳とずっと人の暮らしが続いていて、当然、近隣のクニグニとの交流が生まれていたはずです。各地域はその中でしっかりと文化のサイクルを持っていて、主体性も持っていましたが、新しい文化を取り入れることにも積極的だったのではないかと思います。地域の側から見ると、近畿の文化の『受容』であり、近畿の側から見ると『波及』であり、そういう関係性は当然、成り立っていたのではないでしょうか。以前は、考古学の世界ではヤマト政権の文化の波及に、50年ぐらいかかるんじゃないか?などといわれていました。でも今は違って、ほぼ同時に歴史を共有していたと考えていいと思います」(今尾先生談)

 ヤマト王権の文化と地方の文化の同時共有説。古代から日本人はなんとダイナミックに自由に移動し、互いに交流していたことだろう。そこには必ず、海や河川が関係してきた。「こしの国」も信濃川や阿賀野川が流れ、すぐそこまで日本海が迫るという地形で、海流や大河の流れに乗って、人、物、情報がどんどん「波動」として伝わっていったはずだ。その上に「受容」と「波及」が繰り返し行われ、土地土地の文化が醸成されていったのだろう。
 土器が雄弁に語るように、遠隔地の土器が混ざり合い、融合して出土する「こしの国」は、まさに北辺の文化交流の中心地だったにちがいない。

新潟県立歴史博物館の常設展示コーナー。土器の変遷、つまり=時代の変化をリアルに見てとることが出来る。時代の「波動」が常に土地に影響を及ぼし、受容と波及が繰り返されていったのだろう。

【古代旅の先達からのメッセージ】

◆今回の旅のナビゲーター
関西大学非常勤講師 今尾文昭先生

「こしの国の古墳を巡る旅」はいかがでしたか。今回の旅のキーワードに「受容」と「波及」というものがありました。例えば古津八幡遺跡を見ても、古墳時代よりも古くから、高地性集落という歴史的な前段があって、その上で古墳文化が波及していったのがわかります。そこにはまず、最初に新しいモノ、コトへの受容があったわけです。どう受容して、どう波及していくのか。そこに地域ごとの差異は必ずあったと思います。
 その繰り返しの末に、地域の個性、絶対的な地域性というものが醸成されていったのではないでしょうか。それが現代の県民性にも繋がっていくと考えると、非常に興味深いですね。



◆プロフィール◆
今尾文昭 いまお・ふみあき
1955年兵庫県尼崎市生まれ。78年同志社大学文学部文化学科文化史学専攻卒業後、奈良県立橿原考古学研究所へ入所、その後、学芸課長、調査課長などを経て、2016年定年退職。現在、関西大学文学部非常勤講師・NPO東海学センター理事長。博士(文学)。専門は日本考古学。著書に『律令期陵墓の成立と都城』(青木書店)・『古墳文化の成立と社会』(青木書店)・『ヤマト政権の一大勢力 佐紀古墳群』(新泉社)・『世界遺産と天皇陵古墳を問う』(思文閣出版)・『古墳空中探訪』[奈良編]・[列島編](新泉社)『天皇陵古墳を歩く』(朝日選書)ほか。


『天皇陵古墳を歩く』
奈良・大阪に点在する大型前方後円墳はその大多数が天皇陵に治定、立ち入りが制限されてきた。近年、研究者への限定公開が進められている。第1回の公開から立ち合ってきた著者が主要な大型古墳の周囲を踏査。年代観を示す。
発行:朝日新聞出版
定価:1,870円





天皇陵古墳を歩く『飛鳥への招待』
高松塚壁画発見以来、重要な遺跡の発掘が相次ぎ、歴史的景観の整備も進んだ飛鳥。また、『万葉集』の故地として、あらたな魅力を発信しつつある。読売新聞奈良版に足かけ三年にわたり連載された「飛鳥学」は、考古学・古代史・万葉学・民俗学など分野を横断した研究者の最新知見をわかりやすく紹介し、好評を博した。本書はその連載に加え、第一線の研究者による座談会、現地を体感する周遊紀行の三部立てで構成。飛鳥の魅力を一冊に凝縮した決定版ガイド。
発行:中央公論新社
定価:2,090円

◆ちょっと立ち寄り〜古代を学び、古代に触れる〜◆

●新潟県立歴史博物館
新潟県の歴史や民俗を総合的に紹介する歴史民俗博物館。全国的・世界的視点から縄文文化を広く研究・紹介する縄文博物館としても知られている。縄文時代に広範囲に行われた人や物の交流、巧みな工芸技術、「食」に関する知恵や工夫、縄文の祈りなど、縄文時代の実像を紹介している。とくに常設展示「縄文文化を探る」(火焔土器の世界)の世界観に圧倒される。

◆住所    新潟県長岡市関原町1-2247-2
◆電話番号 0258-47-6130(代表)
◆開館時間 9:30~17:00(観覧券の販売は16:30まで) 
◆休館日  月曜日(月曜が祝日の場合は翌日)、12/28~1/3(年末年始)
◆観覧料  常設展観覧料(一般:520円、高校・大学生:200円、中学生以下:無料)、企画展は別に定める。

 

●釜蓋遺跡ガイダンス
JR北陸新幹線・えちごトキめき鉄道「上越妙高駅」西口の目の前にある、釜蓋遺跡公園内の施設。 釜蓋遺跡は、川と環濠に囲まれた弥生時代の終わり頃から古墳時代のはじめ頃の集落跡で、当時の上越地方の中心的集落だったと推定されている。いまだ謎が多く、ガイダンスでは遺跡からの出土品の展示や体験学習などを通じて情報を発信し、当時の産業や暮らしの様子に迫る。

◆住所   上越市大和五丁目4番7号
◆電話番号 025-520-7166
◆開館時間 午前9時から午後5時まで
◆休館日  火曜日(休日の場合は翌日)、12月29日~1月3日
◆入館料  無料

 

●新潟埋蔵文化センター
国指定史跡 古津八幡山遺跡のすぐ近くにある施設。古津八幡山遺跡出土品はないが、県内で出土した旧石器時代から江戸時代までの土器や石器などを時代別に展示している。とくに縄文時代のアクセサリーや祭祀の道具、漆工芸や木工品など、古代のマツリや暮らしがわかる展示が充実している。また、土器は、時代ごとに特色あるものを展示しており、その変遷を知ることができる。

◆名称:新潟県埋蔵文化財センター
◆住所:新潟県新潟市秋葉区金津93番地1
◆電話番号(代表):0250-25-3981
◆開館時間:9:00~17:00
◆休館日:12月29日~1月3日
◆入館料:無料

◆協力・株式会社国際交流サービス

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郡 麻江(こおり まえ)

こおり まえ

ライター、添乗員

古墳を愛するライター、時々、添乗員。京都在住。得意な伝統工芸関係の取材を中心に、「京都の人、モノ、コト」を主体とする仕事を続けながら、2018年、ライフワークと言えるテーマ「古墳」に出会う。同年、百舌鳥古市古墳群(2019年世界遺産登録)の古墳ガイドブック『ザ・古墳群 百舌鳥と古市89基』(140B)を、翌2019年、『都心から行ける日帰り古墳 関東1都6県の古墳と古墳群102』(ワニブックス)を取材・執筆。古墳や古代遺跡をテーマに、各地の古墳の取材活動を続ける。その縁で、世界遺産や古代遺産を中心にツアーを企画催行する株式会社国際交流サービスにて、古墳オタクとして古墳や古代遺跡を巡るツアーなどの添乗の仕事もスタートしている。

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