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本能寺の変に黒幕はいたのか? “証拠”をもとに事件を捜査する

あの歴史的事件の犯人を追う! 歴史警察 第1回

■首を渡さなかった信長

 信長は自ら弓を持って戦ったが、弓の弦が切れたため、今度は鑓で戦った。しかし、明智軍に追い詰められて負傷し、ついには奥の部屋に籠もると、火を放ってから自害した。自分の首を、明智光秀に渡さないためである。もし、信長の首を光秀が手にすれば、罪人として京都の六条河原に晒されたことだろう。それは、光秀の謀反を正当化させてしまうことになる。だから信長は、最後にできる限りの抵抗として、首だけは渡すまいと必死だったのである。結局、本能寺の焼け跡から信長の遺骸は見つからなかった。そのため、生き延びたとの噂も飛びかったが、1万3000の大軍に包囲された本能寺から、脱出できたとは考えにくい。信長の首だけは、家臣らによって持ち出されたことは十分に考えられる。

■光秀に野望はあったのか?

イラスト/ 羽黒陽子

 光秀が、自らの犯意によって本能寺の変を起こした主犯だとすると、その理由としてまず考えられるのが、野望である。光秀が信長に替わって天下人になるという考えによって謀反をおこしたとみるのだが、光秀が信長を討ってからの行動は、後手後手にまわっているきらいがある。その後に政権を樹立する構想があったとも考えられず、光秀自身に野望があったとは考えにくい。そもそも、戦国時代においては、武力だけで政権を維持することはできなかった。一時的に、信長を討つことはできても、その権力を維持するためには、朝廷や幕府などから権威を借りなければならない。もし野望があったとしたら、その布石を打っておかなければ、自滅してしまう。そのくらいのことは、光秀も十分に理解していたことだろう。

■怨恨があったというのは後世の創作

 野望ではなく、怨恨が原因だったとの見方もある。光秀が怨恨を抱いていたという証拠として提出されているのが、『川角太閤記』の記述である。たとえば、天正10年(1582)3月の甲斐平定が終結した直後、光秀が「我らが苦労した甲斐があった」と祝賀を述べると、信長は「何の功があったか?」と激怒したという。また、同年5月に光秀が安土において徳川家康の饗応役を命じられた際、料理としてだされるはずの食材に悪臭がすることを信長がとがめ、急遽、饗応役を解任されたとされる。

 果たして、これらの理由で光秀が信長殺害に及んだのかどうかであるが、『川角太閤記』は江戸時代初期に書かれた豊臣秀吉の一代記であるので、証拠としての価値は低い。実際、同時代の史料から、そもそも、光秀が信長に怨恨を抱くような事件があったことを確認することができない。
 さらに、江戸時代の『総見記』では、天正7年(1569)6月、丹波八上城を包囲していた光秀が実母を人質にして城主波多野秀治・秀尚兄弟を捕縛したところ、信長の命令で秀治・秀尚が安土で磔にされたため、光秀の実母も殺害されたという。ただし、これも史実とは確認できず、創作された話と考えられる。

 また、『明智軍記』では、それまでの丹波国と近江国志賀郡を没収され、出雲・石見の2か国に転封される話を聞いた光秀が、これを恨んで謀反におよんだとする。2か国転封の打診は、もしかしたら事実であったかもしれない。ただ、当時の武士にとって転封は一般的なことであり、それを恨んでいたら武士としてやっていけない。それに、江戸時代になると、「武士は二君にまみえず」と称されるようになるが、当時は、主君に問題があれば致仕することもできた。恨みをいだきながら、信長に仕えている必要はない。謀反に及ばず、信長のもとを去ったほうが賢明であろう。

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小和田 泰経

おわだ やすつね

1972年東京都生まれ。静岡英和学院大学講師。主な著書に『天空の城を行く』(平凡社)、『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』、『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(ともに新紀元社)他。


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