「逃げの小五郎」はなぜ逃げたのか?「和して同ぜず」を貫いた木戸孝允 |BEST TiMES(ベストタイムズ)

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「逃げの小五郎」はなぜ逃げたのか?「和して同ぜず」を貫いた木戸孝允

歴史上の人物を四柱推命で鑑定! 第36回 ~木戸孝允(桂小五郎)~

 歴史上の人物に迫るには様々なアプローチがあるが、ここでは四柱推命(しちゅうすいめい)という手法を用いて、歴史上の人物がどんな性格であり、なぜ成功したのか(失敗したのか)を読み解く。※四柱推命と用語の説明はページの最後をご覧ください。

 今回は、維新3傑の1人、木戸孝允(桂小五郎)を鑑定する。孝允の鑑定結果を見てまず「なるほど、確かに逃げそうだ!」と思った。長州藩士のリーダー役として明治維新に導き、その後明治政府で要職に就いていた孝允。しかし、大事な場面で逃げ出すことから仲間から「逃げの小五郎」と呼ばれていた。ここでは、四柱推命鑑定結果をもとに、なぜ逃げたのか?ということにも注目しつつ、日本のリーダーとして活躍した孝允の性格を読み解いていく。

※なお、孝允は桂小五郎の名でも知られるが、33歳で主君の毛利氏より木戸姓を与えられ、その後木戸孝允と名を改める。ここでは、区別をせず「孝允(たかよし)」と呼ぶ。

木戸 孝允(桂 小五郎):(1833 – 1877)
生年月日:天保4年6月26日(現行暦:1833年8月11日)

 

 まずは、命式表の中で、自然界での役割を表す重要な場所、日柱の干支を読み解いていく。

○日柱の干支:「乙丑」(きのとうし)

 これは「冬」の「草」を表す。冬になっても枯れずに青く残る草があるが、雪が積もっても懸命に根を張るその生命力には驚かされる。強い、しぶとい、孝允はそんなタイプだろうか。西郷隆盛、大久保利通とともに維新三傑の1人に数えられる孝允だが、隆盛は西南戦争にて自害、利通は紀尾井坂にて暗殺される等、幕末の志士の中でも命を全うできたのは珍しい。

 先に述べたように、孝允のあだ名は「逃げの小五郎」。幕末の長州藩士は、松下村塾の塾生を中心に非常に過激で、外国船を砲撃したり京都市内で市街戦を繰り広げたり(禁門の変)して、尊王攘夷の主張を繰り返した。そんな若者をまとめるリーダーだったのが、孝允だった。そのため幕府から指名手配が掛けられ、新選組からも狙われていた。しかし、孝允は着物をわざと汚し船頭に変装したり、袴を脱いで逃げ出したり…いざというときに逃げることからこのあだ名が付けられた。

 もちろん、いい意味ではない。1864年、京都の旅館・池田屋にいた長州藩士らを新選組が襲撃した(池田屋事件)際も、長州藩士ら30人余りが亡くなった中、孝允は逃げて生き残ったという(諸説あり)。この一件で、小五郎は仲間から「臆病者」と呼ばれ、信頼を失った。そんな誹謗中傷を受けながらも、とにかく生き残ろうとしたのだ。まさに冬の草のようにしぶとく強い精神を持っていたのだろう。

 続いて、通変星、蔵干通変星から孝允の性格を読み解いていく。通変星、蔵干通変星をわかりやすく円グラフに表すと下記のようになる。

 

知性…様々な分野の知識が豊富で、何かを学ぶことに喜びを感じる。頭の回転が速く、物事を論理的に捉えることが上手。

行動力…頭で考えるよりも行動で結果を出す。未知の分野に挑戦する意欲が強く、交渉力や営業力を磨けば成功できる。

人脈…さりげない気配りができて誰とでも仲良くなれる。サービス精神が旺盛でコミュニケーション能力も高く人を動かせる。

自立心…他人に依存することなく、自分が信じた道を突き進む強い精神性。リーダーシップを発揮しフリーで活躍できる。

遊び心…楽しいことを企画する等、生活に遊びを取り入れることが自然とできる。芸術面の才能があり、表現力が豊富。

 
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妃萃(本名:油川さゆり)

ひすい

青森県八戸市出身。慶應義塾大学 社会学研究科 教育学専攻 修士課程修了、同研究科 同専攻 後期博士課程在学中。2013年鳥海流・鳥海伯萃より四柱推命の指南を受ける。これまで500人以上を鑑定。多数の弟子を輩出。

元放送局報道記者。フリーアナウンサーとして、BS11の番組にレギュラー出演しているほか、ナレーターや司会として活動中。日本の歴史、伝統芸能を伝えるため、歴史勉強会、その他イベントを主宰。自身も大和言葉、辞世の句、武田氏と油川氏等について講演活動を行う。合同会社真己、共同代表。また、2016年6月から「カミムスヒ」というソングユニットで歌手活動を開始。手話検定3級、ホームヘルパー、視覚障害者ガイドヘルパーの資格を持ち、社会福祉活動に積極的に携わる。


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