太平洋戦争初期は陸軍に徴用されてシンガポールに滞在したこともあったが、末期から戦後の3年間は甲府や郷里に疎開していた。
「本格的に釣りに熱中し始めるのは戦後です。取材旅行に行くにしても、どこにでも必ず竿を担いで行くほどになります」。
 釣行は全国各地にわたり、特に伊豆や甲州の渓流によく通い、同時に海釣りにも行っていた。
「“酒も美味いぞ”と飽きずに何度も通ったのが、山梨の下部温泉、源泉館を常宿にしていました。伊豆では河津周辺です」。
 その様子は現在、講談社文芸文庫から刊行されている『釣師・釣場』に描かれている。
「井伏さんの釣りは自然に溶け込むスタイルです。竹竿を愛し、生餌を使ったものでした。弟子の開高健さんとは正反対です」。

 開高は『完本私の釣魚大全』の中で、ある湖に一緒に釣行した時の事をこんな記述をしている。
 “岩波氏(当時の『新潮』編集者)は始終、老師の横につきそうかのようにして竿をだしたが、この御二人の釣りはイクラを餌にして浮子(うき)をつけての古式釣法である。私はルアーとフライをたくさん持っていったのだけれど〈中略〉ルアーはやめにしてフライで行くことにきめた”。老師とは井伏のこと。彼らは3日間滞在したが、2日目まで釣果なし。ところが…“三日目の午前中、これが最後のチャンスだとしてやったところ、老師がみごとに穴場をさぐりあて、尺鱒の入れ食いとなって、ビクが破れそうになるほど釣れた”。
 その後彼らは東京に戻り、井伏が馴染みにしている飲み屋に直行。釣果分けをするが、井伏は自分からは自慢話は一切しない。
 “私たちがめいめい口ぐちに保証したので。師の名誉は完全に確保され、高揚されたのだった”(『完本私の釣魚大全』より)。
「自然の中で微妙な魚とのやりとりを楽しむのが好きで、手柄話を極力避けました。自慢話をしなかった釣り師というのが、一番的確な表現ではないでしょうか。『川釣り』や『釣師・釣場』を読んでいると、それがよくわかります」。

 絢爛豪華な言葉を使って表現する開高。自分を含めた釣りと自然の風景を愛し、落ち着いた文体で書き綴る井伏鱒二。対照的な師匠と弟子だからこそ、ふたりは惹かれあったのだろう。

『一個人』2018年4月号より構成