恨みの念を込め、大鉄砲を構える

 信長は、1582年(天正10年)の「本能寺の変」の失敗でも分かるように、出征の際には大軍を率いることなく、わずかな手勢で出向くことが多い人物でした。そのため弥左衛門たちは、敢国神社の境内に忍び込むことに成功し、狙撃の準備に入りました。
 用いた武器は大鉄砲。詳しい形状は不明ながら、普通の火縄銃よりも銃弾が大きく、銃身が長い複数人で放つ火縄銃だと考えられます。

 そして、弥左衛門は伊賀に地獄をもたらした魔王に照準を合わせました。
 恨みの念を込めて引き金を引くと、巨大な銃弾が信長の陣営に襲い掛かりました。
(やったか―――)
 騒然となる陣営に目をやると、その銃弾の餌食となった者が7、8人倒れていました。しかし、その餌食の中に信長の姿はありません。なんと、信長は再び無傷でした。鉄砲の名人である弥左衛門の銃弾はなぜか信長を逸れて、近習たちに当たったに過ぎなかったのです。
(悪運の強い男め!)
 すぐに近習たちの捜索が始まったため、弥左衛門たちは飛ぶ鳥の如く、その場を逃げ去りました。近習たちは弓矢を放ちながら弥左衛門たちを追い掛けます。弥左衛門たちは周辺の地理を知り尽くしていたため、近習たちの追撃から何とか逃げ切ったものの、2度目の信長の銃暗殺計画も失敗に終わってしまったのです。

 その後、信長の捜索は執拗に続きました。その包囲網から何とか逃れていた弥左衛門ですが、ついに捕縛されてしまいます。原因は身内の伊賀忍者の裏切りでした。
 弥左衛門には、かつて部下だった宮田長兵衛という伊賀の郷士がいたのですが、この宮田が毒を盛って弥左衛門の動きを封じ、仲間と共に縛りあげて、信長がいる安土に突き出してしまったのです。

 弥左衛門は安土の牢獄に入れられ激しい拷問を受けました。この時、協力者とされる本願寺のことは一切漏らさず、伊賀やその郷民たちを多く害したことに恨みがあるということを堂々と述べたといいます。これに激怒した信長から命じられた処刑の執行が迫るある夜、弥左衛門は、最期の意地とばかりに、門番を欺いて短刀を奪い、牢獄を脱走しました。
 しかし、すぐに松明を手にした多勢の追手が迫り、見知らぬ安土という土地でもあり、弥左衛門は逃げ隠れる術はなく万策尽きてしまいました。
 そして、手にしていた短刀を用いて、自ら生涯を終えたのでした。

 弥左衛門にまつわる史跡などは、ほとんど残されていませんが、信長を大鉄砲で狙撃したと言われる敢国神社は、現在も弥左衛門の故郷の伊賀を見守り続けています。

(『あの方を斬ったの…それがしです ~日本史の実行犯~』より)