板垣退助から「スパイ」を命じられる

 土佐藩の軍勢が甲府に攻め寄せた時には、当時28歳だった武市は板垣退助から斥侯(偵察部隊・スパイ)を命じられました。仲間3人と共に偵察をし始めた武市は、大胆にも甲陽鎮撫隊の兵がすぐ目の前までいる場所はで偵察に訪れました。
「もう引き返そう」
 仲間がさすがに止めようとしたものの、武市は「諸君は帰れ。僕はこれからだ」と言って単独で偵察を続け、その途中では早駕籠に乗り、「ヤーホイ!」と大声を出しながら、甲陽鎮撫隊がいる勝沼を巡回したといいます。
 また、その帰りにはこの地域の富豪と思われる庄屋にいきなり飛び込んで、主人を呼び出しました。しかし、もしこの庄屋に旧幕府軍の息が掛かっていて兵士が駐屯していた場合、武市は捕縛されるか殺されてしまうかもしれません。そういった中で武市はこう言い放ちました。
「我は東山道先鋒官軍の斥侯である。今身をもって足下の家に投ずる以上、殺さんとならば殺せ(殺したいなら殺せ)」
 これに驚いた主人は「どうして大官の御命令に背きましょうぞ」と平伏して、新政府軍に従うことを誓います。それを受けて武市は、主人に敵情の探索を命じて、その詳細を得て本営の板垣退助の許に持って帰り、「甲州勝沼の戦い」の大勝利に繋がったといいます。

 2ヶ月後、軍勢を東に進めた新政府軍は今市(栃木県日光市)で日光東照宮に陣を張る旧幕府軍と対峙していました。武市が従軍する土佐藩の軍勢もこの中にいました。
 この時、板垣退助はあることを不安視していました。
 それは「江戸の上野の寛永寺にいる彰義隊(旧幕府勢力:江戸無血開城後も寛永寺に陣を張っていた)が『上野戦争』で敗走して北上した場合、挟み撃ちに遭ってしまう可能性がある」ということでした。そこで板垣退助は、上野の戦況を探るために斥侯を走らせました。その任務を命じられたのが武市でした。

 2人の仲間を連れた武市は、大水となっていた利根川を恐れることなく渡り、古河(茨城県古河市)の宿場町に辿り着きました。武市は古河で一晩過ごすために旅館に入ると、隣室から3人の武士の話声が聞こえてきました。
 武市は「敵(旧幕府軍)ならば斬ろう。官兵(新政府軍)ならば探索の手蔓を得よう。ただ斬るか、斬られるか一つに二つだ」と意を決して隣室に乗り込みました。
「貴殿方は何(いず)れの藩ぞ!」
 そう叫ぶ武市に驚いた武士たちは「相馬(福島県相馬市)の藩士である。只今、江戸から帰国の途中である。素より官軍である」と答えました。
 味方ということを知った武市は、相馬藩士から上野の戦況を聞き出して、今市の板垣退助に報告しました。
 これら戊辰戦争時の功績によって、武市は板垣退助に深く信用され、より重用されています。
 明治維新後は「陸軍少佐」だった武市は、1872年(明治5年)に薩摩藩の池上四郎と共に「外務省十等出仕」に命じられ、満州(中国北東部)の偵察や現地調査という特命を任じられました。

 この特命の背景には「征韓論」がありました。
 征韓論は、国交が閉ざされていた朝鮮国を、武力をもって開国させようという政策であり、その中心人物には武市の上司である板垣退助がいました。そこで、戊辰戦争で斥侯の功績があった武市が、現地の情勢を知るために満州へ渡ったのです。
 任務を遂行した武市は、翌1873年(明治6年)に帰国を果たしました。

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