上杉謙信の見事な策

 両軍が睨み合いを続けて、およそ半月後の9月9日。
 突如、上杉謙信から「今宵の内に西条山を下り、川中島に陣を張る」という命令が伊豆守ら上杉軍に下されました。それは「海津城の炊煙が平時よりも多かったため、武田信玄が今宵に戦を促す」と考えたためでした。
 この上杉謙信の分析は、武田軍の策を見事に見破ったものでした。
 これより数刻前、海津城では軍議が開かれ、武田信玄の軍師とされる山本勘助が策を提言していました。それは「兵を二手に分け、一方で西条山の上杉軍を奇襲して山を降らせ、もう一方の本陣でそれを迎え撃つ」というものでした。いわゆる「啄木鳥(きつつき)戦法」です。
 上杉謙信はこれを看破して先手を打ち、逆に奇襲を仕掛けようと考えたのです。

 この下山の前か後かは不明ですが、伊豆守は決戦に向けて、上杉謙信からある役目を命じられます。それが「旗本の先陣」でした。
 旗本とは大将の側近を務めるいわば精鋭部隊であり、先陣は合戦において最も名誉ある役割とされているものです。伊豆守は、を水原親憲(すいばら・ちかのり)ら4人と共に、旗本という精鋭部隊の中でも先陣という誉れある任務を命じられていました。このことからも、伊豆守が上杉謙信からどれほど信頼を得ていたかが分かります。
 大役を命じられた伊豆守は、逸る気持ちを抑えながら、西条山を降って雨宮(あめのみや)の渡しから千曲川を渡り、決戦の地である八幡原(はちまんばら)に陣を張りました。

 そして、時は1561年9月10日を迎えます―――。
 伊豆守の周囲には濃い霧が広がり、川中島は静寂に包まれていました。
 日が昇るにつれて霧が晴れていくと、上杉謙信が見破った通り、目の前には武田軍が陣を張っていました。“今日が限り”と決戦を決意していた上杉謙信から下知が下り、上杉軍は武田軍に襲い掛かりました。
 伊豆守ら旗本の先陣5人は“龍が蛇雲を巻き、虎豹が林を飛び出す如く”真っ直ぐに武田軍を激しく攻め立てます。
 奇襲を掛けたつもりが、逆に不意を突かれる形となった武田軍は、大混乱となりました。

 激しい戦闘の中で、武田信繁(信玄の弟)や山本勘助など多くの武将たちが討ち死にを遂げていき、武田軍は劣勢に陥りました。
 そういった戦況の中で態勢を立て直すために武田信玄は戦場を脱すことを考え、八幡原の西を流れる御幣川(おんべがわ)沿いに下って、千曲川を渡るために雨宮の渡しを目指しました。
 この武田信玄の動きを見逃さなかったのが「川中島先陣の五将」と称された、伊豆守ら旗本の先陣5人衆でした。
 伊豆守は、30騎ばかりの兵を連れて敗走する武田信玄の後を馬で懸命に追い掛けました。武田軍の兵士たちも大将を討たれてなるものかと、必死に伊豆守らに反撃に出ました。

「大将は何処(いずこ)にぞ!」

 伊豆守らは、武田軍の反撃をもろともせず、敵兵を斬り伏せていきました。
 そして、ついに―――。

「すわ! 武田入道は是(これ)ならん!」

 武田信玄に追い付き乗り寄せた伊豆守は、三尺(約90cm)ほどの刀を三太刀、振り下ろしました。

「何者なれば、推参なり!」

 武田信玄は抜刀する間もなかったことから、伊豆守の三太刀を軍配団扇で受けました。後にその軍配団扇を見ると、刀傷は8カ所あったといいます。
 さて、伊豆守の三太刀は武田信玄の肩を斬りつけたものの、仕留めるまでにはいっていません。そのため伊豆守は、次の一刀で討ち取ろうとしました。

 しかし、その時―――。

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